上田市: 長谷寺(真田幸隆・昌幸菩提寺)

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概要・歴史・観光・見所
長谷寺(上田市真田町)概要: 長谷寺は長野県上田市真田町長に境内を構えています。長谷寺の創建は不詳ですが当初は種月庵と称した小庵だったと伝えられています。天文16年(1547)、真田幸隆が晃運和尚(曹洞宗長源寺(群馬県安中市)の僧:長源寺は幸隆が上州に身を寄せていた時代に縁があったとされます。)を招いて中興開山し寺号を真田山種月院長谷寺に改めました。天正16年(1588)、真田家を継いだ昌幸は父親である幸隆の菩提を弔う為境内を整備し自らの菩提寺にもなっています。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは昌幸、幸村父子は西軍に与し上田城に立て籠もり東軍を迎え撃った為、長谷寺も真田家縁の寺院として標的の1つとされその兵火により多くの堂宇が焼失しています。元和8年(1622)、真田信幸が松代藩に移封になると松代城の城下に長谷寺6世住職を招き長国寺長野県長野市松代)を創建し長谷寺は長国寺の末寺になっています。その後も長谷寺は宝暦7年(1757)の火災や、寛保2年(1742)の大洪水、明治23年(1890)の火災など度々災難に遭い真田家縁の品々が焼失や紛失しましたが境内には真田幸隆夫妻と真田昌幸の墓所(中央:幸隆・左:幸隆夫人・右:昌幸)があり上田市指定史跡に指定されています。山号:真田山。院号:種月院。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦牟尼仏。

【 長谷寺:菩提者(真田幸隆) 】−真田幸隆の出生は不詳で海野棟綱の子供や真田頼昌の子供などの説があり、記録上では永正10年(1513)に生まれたとされます。何れにしても滋野一族の一翼を担って真田庄(上田市真田町)を中心に勢力を広め、一定以上の勢力を築き上げたと思われます。天文10年(1541)、信濃国侵攻を画策する武田信虎は村上義清や諏訪頼重などの国人領主を引き入れ信濃国小県郡に侵入、当時の小県郡は滋野一族(海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏など)によって支配されていた為、海野平で両者が激突し、武田方が勝利、滋野一族は瓦解し真田幸隆は長野業政を頼り上州に落ち延びています。業政は幸隆の意に反して信濃侵攻に積極的でなかった為、幸隆は武田信玄に降り地形や情勢を熟知している事で信濃侵攻を手引きする事大功を上げ真田庄領主へ復権を果しています。特に諜報や謀略に長けていたとされ信玄でも落せなかった戸石城を天文20年(1551)に僅か1日で落城させた事で一気に名声が高まりました。その後も永禄6年(1563)に岩櫃城、永禄8年(1565)に獄山城、永禄10年(1567)に白井城(群馬県渋川市)を落城させ武田二十四将にも数えられました。天正2年(1574)に死去、享年62歳、戒名「笑傲院殿月峯良心大庵主」。

【 長谷寺:菩提者(真田昌幸) 】−真田昌幸は天文16年(1547)、真田幸隆の3男として生まれ、当初は真田信綱、昌輝と2人の兄が居た事から同じく武田家家臣だった武藤家の養子となり武藤喜兵衛と称していました。武藤家の家督を継ぐと足軽大将を経て要職を担うようになり永禄12年(1569)の北条家との三増峠の戦いでは一番槍の功を挙げ元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いにも従軍し功を挙げています。天正2年(1574)、幸隆死去、家督は長男である信綱が継ぎましたが天正3年(1575)の長篠の戦いで信綱と2男である昌輝が共に討死した為、昌幸が真田家宗家を継ぐ事になりました。その後は信玄の跡を継いだ武田勝頼に従い、沼田領に侵攻し天正8年(1580)には沼田城(群馬県沼田市)を落城させ支配下に入れています。

天正10年(1582)、織田家の甲斐、信濃侵攻により武田家が滅亡すると、織田信長の家臣である滝川一益に従ったものの、同年、本能寺の変で信長が自刃すると一益は自領に撤退を開始、昌幸は独立を画策し周辺の旧武田家家臣をまとめて上げ、さらには沼田城の奪取を成功させ一定程度の領地を確保しつつ周辺の大大名と対峙する事になりました。そのような中、沼田領を巡って徳川家康と対立が激化、天正13年(1585)には徳川家家臣であろ鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉等約7千の兵が真田領に侵攻、昌幸の居城である上田城(上田市)を巡る攻防戦では徳川軍に大きな被害を出し撤退、さらに支城である戸石城や沼田城、丸子城なども堅守した事で真田家の名声は全国に広がりました。

その後は豊臣秀吉の命で一時徳川家康の与力となるものの天正15年(1587)に豊臣家の家臣となり沼田領を巡る問題も一応解決しましたが、天正17年(1589)、真田領にある名胡桃城が小田原北条氏家臣の猪俣邦憲に侵攻により落城し接収されました。この事件を原因として天正18年(1590)、小田原の役が行われ、昌幸は大道寺政繁が守る松井田城攻めに参陣し功を挙げ、その後も豊臣軍に従軍し関東地方にある北条方の支城を次々と攻略していきました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは次男幸村と共に西軍に与し、長男信之は徳川家康の養女で本多忠勝の長女である小松姫を正室で娶っている関係などから東軍に与した事から形式的には敵対する関係となりました。上田城には徳川秀忠率いる3万8千の兵が引き寄せ、対する真田家は2千余りが上田城に立て籠もり籠城戦が展開され、徳川軍には多大なる損害を与えたと同時に秀忠が本戦である関が原の戦いに遅参する原因の1つとなりました。本戦で西軍が敗れても尚、上田城は健在でしたが東軍の信之の手前もあり開城し降伏に応じています。戦後は一度は死罪を言い渡されたものの、信之や本多忠勝の助命嘆願などで一命を取りとめ、幸村共々九度山に流されました。慶長16年(1611)死去、享年64歳、戒名「長谷寺殿一翁千雪大居士」。

長谷寺:写真

長谷寺
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