諏訪大社上社前宮 |
上社は下社より上流に位置し延長5年に完成した延喜式神名帳によると「信濃国諏訪郡 南方刀美神社二座 名神大」と記載されている事から古代から既に上社と下社に分かれていた事が窺えます。明確な記録は、平安時代末期の治承4年に上社と下社と別に記載され少なくともこれ以前から別れて信仰されてたと推定されています。当初、上社は前宮に位置する場所が信仰の中心でしたが時代が下がると祭祀を司る大祝家と、行政、軍事を司る惣領家と明確に別れ、室町時代に惣領家が新たな居城である上原城に移ると次第に政治的中心から離れさらに、江戸時代に入り大祝家の居館も当地から離れると次第に荒廃し長く本宮の摂社という立場に甘んじました。
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諏訪大社上社本宮 |
前宮の荒廃とは対比し、次第に上社の信仰の中心となりました。戦国時代に惣領家の諏訪氏が武田家の侵攻により一時断絶し、さらに兵火で社殿が焼失した事で衰微しましたが、江戸時代に入り諏訪氏が復権し高島藩主として返り咲くと再興に勤めています。元々、本宮周辺が行政の中心で門前町も整備されていましたが、名跡を継いだ諏訪氏は諏訪大社とは一定の距離をとり、離れた場所に高島城を築き城下町に甲州街道を引き込む事で行政と経済を分離しました。当然、信仰の中心は引き続き諏訪大社が担い、境内には壮麗な社殿が造営されました。ただし、再建された拝殿背後の直線上に守屋山が無いなど良く解らない部分も多いとされます。
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諏訪大社下社秋宮 |
上社から見ると下流に位置し、古くから上社とは分離していたと思われます。大祝は代々金刺家が世襲してきましたが、中世以降、上社の大祝である諏訪家と対立し武装化する事で武士団を形成しました。鎌倉時代中期頃から上社との本社争いが激化し、その後も何かにつけて対立するようになり室町時代中期には上社の侵攻により下社の社殿が焼き討ちとなる出来事もありました。戦国時代に入ると上社の内部対立に巻き混まれ金刺興春が討死し社殿が兵火により焼失した事で下社の没落が決定的となりました。金刺氏が滅ぶと武居祝氏が祭祀を司りましたが所謂、大祝には就任しなかったとされます。江戸時代には宿場、門前、湯治場として繁栄しました。
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諏訪大社下社春宮 |
秋宮と春宮の関係は上社の前宮と本宮との関係とは異なり同列、同格です。古くから日本には春になると田の神として里に降り、秋になると山の神として山に帰るといった信仰が各地で見られ、諏訪大社下社でも同様な思想が窺えます。その為、2月と8月には遷座祭(お舟祭)が行われ御霊代(依り代)が秋宮と春宮の両社間を遷座を繰り返す神事が行われます。例大祭である8月1日に春宮に鎮座していた御霊代を舟(柴舟)に乗せて秋宮に遷座し、2月1日に行われる遷座祭では、例大祭に比べると質素に行われ、秋宮から御霊代が春宮に遷座します。1月14日の夜から1月15日にかけては今年の農作物の収穫や出来などを占う筒粥神事が行われます。
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