信玄塚(根羽村)概要: 元亀4年(1573)、武田信玄は三河侵攻の野田城(愛知県新城市豊島)攻略の際体調を崩し、鳳来寺(愛知県新城市)で養生していましたが、回復に至らず信濃に撤退を開始、4月12日に「ねばね(根羽)」の上村に差し掛かったところで信玄が死去したとされます。信玄の没地には供養の為、塚が造営され信玄塚として祭られてきましたが、寛永年間(1661〜1673年)、信玄没後100年目の供養の為、武田家縁の人々が宝篋印塔(伝承とは異なり形式的には室町時代末期に製作されたと推定されています。)を建立し、宝暦年間(1751〜1764年)頃から武田神社として祀られるようになりました(信玄塚はに宝篋印塔から下方50m程の位置にあるそうですが埋没しているようです?)。信玄塚は歴史的に貴重な事から昭和56年(1981)に根羽村指定史跡に指定され、宝篋印塔(武田信玄供養塔)は根羽村指定有形文化財に指定されています。
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