【 概 要 】−根羽村の伝承によると元亀4年(1573)に武田信玄が京都を目指し三州街道を西上し三河国の野田城の手前で病気になり、家臣達が協議した結果、甲府に一旦戻り養生する事になったそうです。信玄を乗せた駕籠が根羽に差し掛かった時、信玄は山県昌景を呼び「明日、瀬田橋の袂に旗を立てよ」と命じそのまま息を引き取りました。昌景は信玄が京都に上洛した夢見ながら亡くなったと悟り、旗を横に伏せて甲府に帰ったとされその故事に因み横旗の地名の由来になりました。
又、信玄の墓は根羽村の街道沿いに建てられたましたが、新たに街道が開削されると道の下に位置するようになり、そこを通る馬が恐怖に怯え動かなくなったそうです。村人や馬方は信玄の祟りと悟り、街道を見下ろせる現在地に墓を移すと不思議と馬も怖がらなくなったと伝えられています。
甲陽軍艦によると「歳五十三歳で天正元年酉の四月十二日、三河・美濃・信濃三ヶ国の間、ねばねの上村と申す所にて御他界」とあります。
信玄塚(根羽村)は寛文12年(1672)の信玄の百回忌法要が恵林寺(信玄の菩提寺・山梨県甲州市塩山)で行われた際、一族や関係者から終焉の地にも供養塔が望まれ宝篋印塔が建立されたと伝えられています。その後、この宝篋印塔は村人達から信仰の対象となり宝暦年間(1751〜1764年)以降は武田神社として祀られるようになりました。
又、江戸時代末期の記録によると「十王の辻堂の傍に五輪あり。又其一族の小なる五輪塔多数あり。宝暦の頃、八幡勧請あり。武田信玄の墳墓と称えている」と記載され少なくとも江戸時代から当地で信玄が没し、さらには墓碑も建立されていたと信じられていたようです。ただし、その宝篋印塔を調査すると室町時代末期の石造物と判定されている事から百回忌云々とは別とも考えられます。
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