長久保宿本陣(石合家住宅)概要: 長久保宿本陣は代々石合家が勤めていました。石合家4代目当主石合十蔵道定は周辺を支配した土豪で、経緯は不詳ですが当時の領主真田昌幸の2男真田幸村の長女「すへ」を奥方として迎えていた事からかなりの実力者だった事が伺えます。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、真田昌幸、幸村父子は西軍に与し、第2次上田合戦では勝利したものの、本戦である関ケ原では西軍が敗れた為に改易となり、石合十蔵道定も帰農したと思われます。長久保宿の開宿に大きく貢献した事から本陣、問屋、名主に就任し、宿場の重責を担いました。大坂の陣の際には真田幸村が「すへ」の身を案じ、石合十蔵道定宛ての書状が送られています。
現在の建物は江戸時代初期の寛永年間(1624〜1643年)に建てられたもので中山道の宿場町に現存する本陣の中で最古の建築とされています。明治時代以降規模は縮小されましたが、嘉永3年(1850)の絵図には大名や公家が宿泊する主要部分の他にも問屋場や代官詰所、御番所(2箇所)、御湯殿(4箇所)、雪隠(7箇所)、土蔵、馬屋、御入門などの建物が軒を連ねていました。現在でも上段之間(御殿の間)や二之間、三之間、入側、表門(切妻、桟瓦葺き、一間一戸、薬医門)と共に古文書や高札、長久保宿史料などが残されており貴重な事から昭和53年(1978)に長和町指定有形文化財に指定されています。
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