長久保宿(佐久市)概要: 長久保宿(長野県長和町)は慶長から元和年間(1596〜1624年)に整備された宿場町で中山道69次中27番目に位置しています。長久保宿の集落的な発生は判りませんが、長久保宿の鎮守である松尾神社が弘治3年(1557)に社殿が再建されている事から少なくとも室町時代には存在していたと思われます。近くには大井氏の一族である長窪氏が長窪城を築き当地を支配し、戦国時代に武田信玄が当地域に進出すると重要拠点の1つとなりました。天正10年(1582)に武田勝頼が自刃すると独立を画策する真田昌幸が接収しましたが、天正11年(1583)に上田城(長野県上田市)を築き本城を上田城に遷すと長窪城は廃城になったと思われます。当地は真田家に従った長窪郷の郷士である石合家が代官職に任命されています。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で真田本家が西軍に与し、局地戦である上田城攻防戦では徳川本隊に大打撃を与えたものの、本戦での関ケ原では東軍が勝利した事から没落を招きましたが、分家筋の真田信之が東軍に与し真田本家の領地を引き継いだ為、石合家は引き続き真田家に従っています。慶長7年(1602)に中山道が開削されると、石合家は長久保宿(当時の長窪宿)の開宿に尽力し、宿場が成立後に本陣、問屋、名主に就任しました。石合家はその後も真田本家との関係を続け、真田信繁(幸村)の長女「すえ(菊)」が石合道定に輿入れし、信繁が慶長19(1615)大坂夏の陣の直前に婿である石合十蔵道定に「父子事御安事、作兵衛方迄御尋尤候、我等篭城之上ハ、必死に相極候間、此世にて面談ハ有之間敷候、何事もすへこと心に不叶き候共、御見捨無之やうに頼入候、委者惣右可申候、謹言」と記した手紙を送っています。
長久保宿の問屋である小林家も石合家と同様に元々真田家に仕え現在でも屋根の棟瓦には真田家の家紋である六文銭が掲げられています。石合家、小林家共に慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの後は帰農、長久保宿の開発に尽力し、それが認められ、石合家は本陣兼問屋、小林家は問屋を歴任しました。江戸時代に入ると長久保宿は小諸藩(本城:小諸城)に属し、寛永4年(1627)には長安寺に小諸城の城主松平憲良が「於大の方」の位牌を奉納しています。
長久保宿は当初、現在地よりも西下の依田川沿いに町割りされていましたが、寛永7年(1630)の大洪水により建物の多くが大きく被害を受けた為、寛永8年(1631)に現在地である高台の堅町に遷され現在に近い町並みが形成されました。長久保宿は天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると宿場は本陣1軒(石合家)、脇本陣2軒、旅籠43軒、問屋1軒(九右衛門家と平右衛門家が半月毎に務めた。)が設置され中山道の宿場町としては比較的大きな町だったとされます。背後に笠取峠を控え上田城の城下町を経て善光寺(長野県長野市)へ向う街道(善光寺道)との追分でもあった為、江戸時代後期以降は旅人や参拝客などで栄え飯盛り女も100人を超えるなど活気があり長久保甚句が流行ったそうです。
当初は本陣や脇本陣、問屋など宿場の中心的な施設があった堅町のみでしたが、その後、旅籠が集中する横町が形成しL字型の珍しい町並みになりました。明治時代以降に近代的な交通網が整備されると急速に衰退しましたが、現在でも本陣(長和町指定有形文化財)や釜鳴屋(竹内家住宅)、濱屋(一福処濱屋)、問屋、竹重家住宅(旅籠)などの古い建物が点在し坂沿いの独特な町並みが残っています。
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