高遠藩

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高遠藩・歴史・観光・見所
高遠藩概要: 高遠藩(現在の高遠町周辺)は慶長5年(1600)保科正光が関ヶ原の戦いで東軍に組し2万5千石で立藩したのが始まりとされます。2代正之は2代将軍徳川秀忠の隠し子とされる幸松で保科正光はその養育の功で3万石に加増され、成人となった正之は寛永13年(1636)に山形藩20万石に加増移封されました。代わって山形藩から鳥居忠春が3万2千石で入封しますが2代忠則の代に江戸城警備役で家臣が不手際を起こし改易となります。高遠藩は一時廃藩、しばらく天領となります。元禄4年(1691)に内藤清枚が3万3千石で入封し改めて高遠藩を立藩、以後内藤家が8代藩主を世襲して明治維新を迎えます。藩の財政は常に不安定な状況で何度か藩政改革が行われるものの「わらじ騒動」などの百姓一揆も発生しています。戊辰戦争では新政府側に組みしています。
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高遠藩歴代領主
 藩主名藩主年間石高備考
初代保科正光1600〜16313万石 
2代保科正之1631〜16363万石 
初代鳥居忠春1636〜16633.2万石 
2代鳥居忠則1663〜16893.2万石 
初代内藤清枚1691〜17143.3万石 
2代内藤頼卿1714〜17353.3万石 
3代内藤頼由1735〜17763.3万石 
4代内藤頼尚17763.3万石 
5代内藤長好1776〜17913.3万石 
6代内藤頼以1791〜18203.3万石 
7代内藤頼寧1820〜18593.3万石 
8代内藤頼直1859〜18713.3万石 

【 高遠藩と矢彦神社 】-上伊那郡小野地方は伊那郡と筑摩郡、諏訪郡が交差する独特な土地柄で度々その所有権を巡り争いがありました。戦国時代末期には飯田城の毛利秀頼と松本城の石川数正が争い、豊臣秀吉が裁定し隣接していた矢彦神社小野神社の境界線がそのまま領土の境界線となり、矢彦神社は松本領、小野神社は飯田領となりました。江戸時代初期までは城主が度々変わりその石高により神社の帰属も変化し、結果的に小野神社は松本藩、矢彦神社は高遠藩領となりました。高遠藩は矢彦神社を上伊那郡の総鎮守に定め例祭である御柱祭では藩の命により郡内にある14ヶ村から人足として500人を出させ、家臣を騎馬隊として派遣して例祭が円滑に行われるように配慮しています。

高遠藩
伊那市高遠町:町並み 伊那市高遠町:町並み 伊那市高遠町:町並み 伊那市高遠町:町並み
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高遠城
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高遠藩・藩校:進徳館
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鉾持神社
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満光寺
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建福寺
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蓮華寺
蓮華寺
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