内藤清枚:概要

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概要・歴史・観光・見所
内藤清枚(満光寺)

【 概 要 】−内藤清枚は正保2年(1645)に水野守政と内藤正勝の娘との子供として生まれました。天和元年(1681)、母親の兄で富田林藩(大阪府富田林市)の藩主内藤重頼の養子となり、元禄3年(1690)に重頼が死去すると内藤家の家督を継ぎ富田林藩3万3千石の藩主に就任しています。元禄4年(1691)に高遠藩(長野県伊那市高遠町)3万3千石に移封となり前藩主と同様に高遠城を藩庁、藩主居館に定めました。内藤家は石高は低いものの譜代大名だった事から大坂加番(元禄7年:1694年・宝永4年:1707年)や奏者番(元禄8〜10年:1695〜1697年)など幕府の要職を歴任し結果的に藩の財政が逼迫する原因となっています。

内藤清枚の高遠藩の実績としては城下に境内を構える満光寺を菩提寺に定めると篤く庇護し、元禄9年(1696)には権兵衛街道を開削しています。清枚は困窮した財政を補う為、木曽の豪商から借財した関係で、借りた金を米で年賦償還する必要があり伊那と木曽を最短ルートで繋げる事で便宜を図りたい意図がありました。元々は旧中山道のルートである小野宿と桜沢を結ぶ輸送路もありましたが地形の起伏が多く大量輸送には不向きで距離も長い事から、牛馬が通行出来便利な街道が望まれました。街道は木曽代官領、松本藩預り天領、高遠藩領を結んでいた為、調整が難しかったようで、特に高遠藩領の7カ村はかなり後ろ向きだったようです。高遠藩領の経路は最後まで残されいましたが、最後は数百人の人足を一気に投入し完成に至りました。

正徳4年(1714)、江戸城大奥での権力争いが発端となり江島生島事件が発生すると、政争に敗れた大奥御年寄絵島は内藤清枚預かりとなり高遠藩に流されました。当初は厳しく監視されていたようですが、その後は絵島が帰依していた見理院日燿上人が住職を務める遠照寺に赴いたり、日頃から信仰していた日蓮宗の蓮華寺の参拝、高遠城に勤める女性たちの躾の指導などを行い比較的自由も認められていたようです。清枚は正徳4年(1714)死去、享年70歳、戒名:慎護院殿枚誉好閑静質大居士。

満光寺:写真
内藤清枚と縁がある満光寺 内藤清枚と縁がある満光寺 内藤清枚と縁がある満光寺 内藤清枚と縁がある満光寺
高遠城:写真
内藤清枚と縁がある高遠城石垣には苔が付き歴史が感じられます 内藤清枚と縁がある高遠城大手門は改変されているますが数少ない遺構として貴重です 内藤清枚と縁がある高遠城の郭を形成している石垣 内藤清枚と縁がある高遠城本丸に掛けられた桜雲橋



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