佐越(佐藤家住宅)

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塩名田宿(中山道)・佐藤家住宅
【 佐藤家住宅 】−佐藤半佐衛門家(屋号:佐越)は塩名田宿の商家で、詳細は判りませんが、上段の間がある事から塩名田宿ではかなり格式の高い家柄だったと思われます。現在の建物(佐藤家住宅)は江戸時代後期に建てられた町家建築で、木造2階建て、切妻、桟瓦葺、平入、桁行7間、2階外壁が前に張り出す出桁造り、外壁は真壁造り白漆喰仕上げとなっています。敷地は間口が7間半、奥行きが10間、間取りは正面向かって右側が通り庭(土間)でm敷地背後の庭まで繋がり、中央は見世(9畳)、その隣には板ノ間(3坪)、その奥が茶ノ間(17畳)、さらに奥が小座敷(9畳)、正面向かって左側は、前面から下ノ間(10畳)、中ノ間(10畳)、上段ノ間(8畳・床の間付・入側4畳付)、敷地背後には土蔵、雪隠(2か所)、湯殿、小屋、物置が配されています。基本的に2列3室6間取、右側が土間の作業場、中央は家人が利用する日常生活の場、左側が客人などを接待する場になっていたと思われます。塩名田宿は町家建築が点在しているものの、明治時代以降に建て替えられたものが多い為、佐藤家住宅が宿場内最古の町屋建築とされています。

【 塩名田宿 】−江戸時代に入り幕府により中山道が整備されると、千曲川を控えた当地に川止めの宿場町が必要となり、建長7年(1602)に当地の実力者である丸山家一族に塩名田宿の運営が任されました。問屋には丸山新左衛門家と丸山文左衛門家、名主には丸山彦兵衛家、本陣には丸山新左衛門家、丸山善兵衛家。脇本陣には丸山文左衛門家がそれぞれ歴任しました。隣の八幡宿とは近く当初の家数は126軒で旅籠も10軒程度でしたが、千曲川は度々増水や氾濫を起こし通行出来なくなった為に重要視されました。塩名田宿が繁栄したのは明治時代中期頃で、金融機関の支店や肥料会社、製紙工場などが進出した事で、宿場内には多くの店舗や料亭が建ち並び花街として名を馳せるようになり、劇場である「塩名田座」も開設され、夜になると多くの店から三味線の音が聞こえたそうです。太平洋戦争後は大きく衰退しましたが、上記の佐藤家住宅や塩名田宿本陣(丸山新左衛門家住宅・宝暦6年:1756年再建、切妻、桟瓦葺、妻入、内部は住宅として改築された)、花街の名残である角屋(木造三階建、切妻、桟瓦葺、平入、楼閣風)や川魚料理屋などが見る事が出来ます。

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