なが井(長和町和田)

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和田宿(中山道)・なが井
【 なが井 】−長井家は和田宿の名主や庄屋など宿場の上役を歴任した家柄です。詳細は不詳ですが和田宿の本陣も長井家だった事から、分家筋だったと思われます。本家の長井家は和田城の大井信定の娘婿で和田宿の開宿にも尽力した実力者で、当家もそれに準じていたようです。特に庄屋職は宿場の行政を代官などに代わって執行する役割を持っていた為、大きな影響力があったと思われます。現在の建物は文久元年(1861)に火災で焼失後に再建された建物で、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、2階外壁正面は1階から張り出した構造材で受ける出桁造り、2階正面は略前面格子戸、建物間口が和田宿の他の町屋建築の2倍以上、敷地向かって右側には表門(切妻、桟瓦葺、一間一戸、薬医門。)が設けられ格式の高さが窺えます。明治4年(1871)に戸長制度に移行し、明治5年(1872)に宿場制度が廃止になると 、旅館業(本亭旅館:現在は営業停止)に転じたと思われます。

【 和田宿 】和田宿は戦国時代に大井信定が築いた和田城の城下町として成立した町です。天文22年(1553)に武田信玄の侵攻により和田城は落城し大井氏も滅亡しましたが、城下町は維持されたようです。江戸時代に入り幕府により中山道が開削されると、慶長8年(1603)に宿場町として和田宿が成立し百数十戸分の町割りが行われ7町58間の長さとなりました。和田宿に背後には難所である和田峠を控え、麓の宿場町である下諏訪宿までは中山道の中でも最大級の距離が離れていた為、参勤交代で中山道を経路にする西国の大名は和田宿や下諏訪宿で、休息や宿泊で利用する例が多かったとされます(文政11年:1828年、和田峠には永代人馬施行所が設けられ、通行人の便宜が図られています)。同時に伝馬も多く、ここで荷物の積み替えが行われた為、活況を呈しました。幕末の文久元年(1861)には公武合体政策に基づき皇女和宮の将軍家(14代将軍徳川家茂)に輿入れが行われ、その際、中山道を下向し和田宿の本陣で宿泊しています。元治元年(1864)の水戸天狗党の乱の際には水戸浪士が多く参加した天狗党一党が中山道を西上し上洛を目指し和田宿で宿泊、和田峠の麓では高島藩松本藩の連合軍と戦闘が行われています。現在でも和田宿には多くの町屋建築がの残り、歴史的にも重要な事から国指定史跡に指定されています。

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