臼井家住宅(麻績村)

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麻績宿(善光寺西街道)・臼井家住宅
【 臼井家住宅 】麻績宿が開宿した当初は有力な豪農だった臼井忠兵衛門家(屋号:中橋)が本陣を務め、記録が判っている中では江戸時代前期の寛文9年(1669)には麻績宿の名主も担っていました。善光寺西街道は幕府が整備した正式な街道では無く、基本的に大名の参勤交代の経路ではありませんが、有力者である臼井忠兵衛門家がが本陣と同等の格式を持ち、身分の高い人物の休息や宿泊に邸宅を供給していたと思われます。江戸時代中期以降は分家筋と思われる臼井孫右衛門家(屋号:瀬戸屋)が勢力を伸ばし、享和3年(1803)に初めて麻績宿の名主となり、以後、明治4年(1871)に名主制度が廃止になるまで、多くの期間を名主として宿場内を治める立場になりました。そのような背景から安政7年(1860)から慶応元年(1865)にかけては忠兵衛門家と孫右衛門家が双方共に本陣を名乗るようになり、所謂、本陣争いが起こっています。現在の臼井家住宅(孫右衛門家−瀬戸屋)は主屋は失われたものの、明治時代初期に建てられた、離れ(御殿)が残されています。離れは、木造平屋建、向かって右側切妻、左側寄棟、桟瓦葺、平入、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ、近代和風建築の要素が取り入れられているようです。

【 善光寺西街道 】−善光寺西街道は、江戸時代初期の慶長19年(1614)に松本藩の藩主小笠原秀政が開削した街道で、松本藩の藩都である松本城城下町中山道洗馬宿(長野県塩尻市)と北国街道丹波島宿(長野県長野市)を結びました。参勤交代では殆ど利用されませんでしたが、北国街道は日本海側に通じていた為、千国街道と同様に塩や海産物の搬入経路となり、五街道の一つ中山道を結ぶ事で松本城下の交通の重要性も高まりました。特に、江戸時代中期以降に善光寺詣でが爆発的に庶民の間に流行ると、西国から中山道を利用した参拝者は善光寺西街道を利用した方が善光寺まで最短距離だった為、多くの往来がありました。又、松尾芭蕉(江戸時代の俳人、「更級紀行」)や、菅江真澄(江戸時代の紀行家、民俗学の祖)、十返舎一九(江戸時代の作家)、正岡子規(明治時代の歌人、俳人、「かけはしの記」)といった著名人も善光寺西街道を利用した記録が残されています。

【 麻績宿 】−麻績宿は案内板によると「 麻績宿が正式に認められたのは慶長18年(1613)12月、松本藩主小笠原秀政によって、後に下問屋と称された葦澤孫左衛門が問屋職を許され、翌年に伝馬役を定められてからである。五街道のような正式な本陣ではなかったが北国脇往還(善光寺街道)沿いの麻績宿では臼井忠兵衛家(屋号−中橋)が代々本陣職を世襲し、当初は57軒の宿場町であったものが、幕末の嘉永年間には240軒に増加してる。麻績宿は長さが東西六町三五間(約710m)で、問屋は上問屋(岩渕家)が月の前半を、下問屋(葦澤家)が月の後半をそれぞれ分担した。・・・・(後略)・・・麻績村教育委員会 」とあります。現在も麻績宿には瀬戸屋、中橋、大和屋(造り酒屋)、花屋、真田屋など伝統的な町家建築が点在し、宿場町らしい町並みを見る事が出来ます。

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