和田宿

  長野県:歴史・観光・見所中山道(信濃路)>和田宿

概要・歴史・観光・見所
和田宿(中山道)概要: 和田宿(長野県長和町)は慶長から元和年間(1596〜1624年)に整備された宿場町で中山道69次中28番目に位置しています。和田宿の集落的な成立したのかは判りませんが、中世は長く大井氏の支配領域で文明16年(1484)に大井城を本拠とした大井宗家が滅ぼされると、その一族と思われる大井氏が和田城に本拠を移し、城下町として町割りされたと思われます。戦国時代に入ると、武田信玄の信濃侵攻により領域が侵されるようになり天文22年(1553)に信玄が大門街道を進軍し中山道との分岐点付近にある矢ヶ崎で合戦となり当時の和田城の城主だった大井信定は討死、和田城も落城し、城の麓に創建された信定寺が菩提寺となっています。

和田宿の外れに鎮座する若宮八幡神社は和田城の北東に位置する事から城の鬼門鎮守として大井氏の庇護となり、境内には大井信定の墓碑が建立されています。大井氏の本家筋は佐久郡大井郷を本貫とする国人領主だった事から、佐久郡三庄三十六郷の総社に格付けされる新海三社神社の分霊を勧請したと伝わる新海神社が宿場を見下ろせる高台に鎮座し、関係性が窺えます。

その後も交通の要衝だった和田宿は重要視され、江戸時代に入った慶長7年(1602)に中山道に開削されると宿場町として改めて町割され本陣、脇本陣、問屋、旅籠などが整備されたと思われます。宿場町として成立する以前は和田城の城下町として中町・下町が既に町割りされていましたが、改めて上町が町割りされ、さらに周辺の雨原、細尾、鍛冶足、久保などに集落から人家を集積し、江戸時代中期の正徳3年(1713)には船場、新田を宿場町に組み入れています。和田宿の背後には中山道の難所といわれる和田峠(標高1531m、和田宿の標高は820m)が控え、隣の宿場町である下諏訪宿長野県下諏訪町)とは中山道の宿場間距離が最長だった事もあり、参勤交代で中山道を経路とする大名や例幣使(日光東照宮の例祭に奉幣を奉納する為に朝廷から派遣された勅使)、多くの旅人、商人達が宿泊で利用しました。

和田宿は天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると7町58間(約870m)、人口522人、家屋数126軒、本陣1軒(長井家)、脇本陣2軒(翠川家・羽田家)、旅籠28軒(大規模12軒、中規模4軒、小規模12軒)が設置され最盛期には70軒の伝馬役があったと云われ、信濃路では規模の大きい宿場町として発展しました(和田宿と下諏訪宿の間は五里十八町と中山道随一の長丁場だったことから多くの伝馬役が必要とされた)。文久元年(1861)の大火で本陣、脇本陣を含め109戸が全焼(和田宿全体の3分2)しましたが、数ヶ月後に仁孝天皇の第8皇女である和宮親子内親王が14代将軍徳川家茂の御台所となる為に降嫁行列が和田宿を利用する事が既に決定していた為、急遽宿場町全体が再建される事になり幕府から多額の借金し全国から大工を動員したと伝わっています。

江戸時代末期の元治元年(1864)11月19日には水戸藩内外の尊皇攘夷派により結成した水戸天狗党が上洛を目指し和田宿に宿泊、翌日である11月20日に和田宿を出立した天狗党は和田峠で待ち伏せした高島藩(長野県諏訪市・本城:高島城)と松本藩(長野県松本市・本城:松本城)の連合軍と激突しました(和田峠の戦い)。当初は連合軍有利に展開していましたが、天狗党の軍師である山国兵部の画策により側面から奇襲をかけ、連合軍は意表を突かれて総崩れとなり天狗党の勝利となりました。

激戦地だった場所には浪人塚が建立され、案内板によると「ここは浪人塚といい、今から120年前に元治元年(1864年)11月20日に、この一帯で水戸の浪士武田耕雲斎たち千余人と松本、諏訪の連合軍千余仁が戦った古戦場でもある。主要武器はきわめて初歩の大砲10門くらいづつと猟銃少しだけで、あとは弓、槍刀が主要武器として使われた。半日戦に浪人軍に10余、松本勢に4、諏訪勢6柱の戦死者があり、浪人たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を造って祀った。碑には、東寺水戸に照会して得た6柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であった。下諏訪町教育委員会」とあります。浪人塚は昭和46年(1971)に下諏訪町指定文化財に指定されています。

現在も和田宿には本陣(歴史の道資料館:国指定史跡、御殿は上田市生田に境内を構える龍顔寺に移築)、脇本陣(御殿には上段の間、二の間、脇上段などが残る)、旅籠(大黒屋・かわち屋:国指定史跡)、問屋跡、旧庄屋(本亭旅館)、よろづや(江戸時代から続く商家)、波多野家(江戸時代中期以降、名主を歴任)などの主要な建物が残り、和田峠にかけては東餅屋茶屋跡、唐沢一里塚、永代人馬施行所などの史跡が点在し当時の雰囲気や町並みが色濃く残っています。又、笠取峠(立科町)、和田宿〜和田峠は当時の中山道の景観を非常良く残している事から平成8年(1996)に文化庁選定の「歴史の道百選」に選定されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-長和町教育委員会
・ 現地案内板-文化庁・長野県・和田村

和田宿:町屋・町並み・写真

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和田宿・神社・寺院・城郭・古民家

本陣
本陣
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脇本陣
脇本陣
脇本陣
かわちや
かわちや
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信定寺
信定寺
信定寺
八幡神社
八幡神社
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白
 
 
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和田宿・歴史・観光・見所

和田宿:本陣和田宿:本陣
・和田宿本陣は代々長井家が歴任しました。現在の建物は江戸時代末期の文久元年(1861)の火災で焼失直後に再建されたもので、皇女和宮が徳川将軍家に降嫁の際に宿泊所として利用されています。木造2階建、切妻、板葺き石置き屋根、平入、桁行12間、梁間13間。
和田宿:脇本陣和田宿:脇本陣
・和田宿に設置された2軒の脇本陣のうちの1軒は代々翠川氏が歴任しました(もう1軒は羽川氏)。現在の建物は江戸時代末期の文久元年(1861)の火災で焼失直後に再建されたもので、座敷部が残されています。木造平屋建て、切妻、妻入、本棟造風。
かわちやかわちや
・「かわちや」は和田宿の旅籠を担いました。和田宿に現存する旅籠建築の遺構の中では規模が大きい方で当時の名残を残しています。近年無住になっていいましたが「歴史の道資料館」として整備され一般公開されています。木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、出桁造。歴史の道資料館。
大黒屋大黒屋
・大黒屋は江戸時代を通して和田宿の旅籠、江戸時代末期の安政年間(1854〜1861年)から穀物商を生業とした家柄です。現在の建物は文政元年(1861)に建てられたもので、木造2階、切妻、鉄板葺、平入、桁行6間、梁間7間、出桁造。
なが井なが井
・なが井は和田宿本陣家である長井家の一族で代々和田宿の庄屋を担う一方で旅籠を生業としました。木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、敷地間口が広く、部屋数が多く、表門(切妻、桟瓦葺、一間一戸、薬医門)を有するなど格式の高さを窺えます。
よろずやよろずや
・「よろずや」は質屋と両替商を生業とした家柄です。主屋の外壁両側には防火、延焼と富の象徴で和田宿の町屋建築では珍しい「本ウダツ」が設けられていました。敷地間口も広く、袖蔵(土蔵:土蔵造2階建、切妻、桟瓦葺き、白漆喰仕上げ)が設けられています。
八幡神社八幡神社
・八幡神社は中世、当地の領主である大井氏の居城和田城の鬼門鎮守として城から見て北東方向の当地に創建された神社です。茅葺の覆い屋兼拝殿(入母屋、茅葺、平入、正面千鳥破風、桁行3間、梁間1軒)内部には一間社流造の本殿(長和町指定文化財)が設置されています。
信定寺信定寺
・信定寺は中世、当地の領主である大井氏の菩提寺として創建された寺院です。江戸時代には例幣使が和田宿を利用した際に参拝し、京都二条殿の祈願所にもなりました。楼門や木造釈迦如来坐像、木造三宝荒神立像、山水六曲屏風、陣鐘、恵林禅人臨川の偶など数多くの文化財を所有しています。


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