田中宿

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田中宿:略データ
・場 所・長野県東御市田中
・概 要・田中宿は江戸時代初期に北国街道が開削された際、沼田藩主真田家の命により、禰津の土豪小田中氏が中心となり近隣三村から住民を集めて開宿しました。

隣接する海野宿とは合宿だったものの、田中宿の方が本宿で、本陣が設置され開宿に尽力した小田中氏が本陣職と問屋を歴任しました。

寛保2年、関西方面に上陸した台風が日本列島を縦断するように北上した事が原因となり千曲川と犀川が複数個所で決壊、「戌の満水」や「寛保の洪水・高潮」と呼ばれる大洪水となり信州各地で大きな被害を齎しました。

田中宿では死者68人、負傷者59人、流出家屋120軒という壊滅的な被害を受け、完全に宿駅の機能を失った事から、比較的被害が少なかった海野宿に本陣を譲り、小田中氏も本陣職を失っています。

その後は再興が図られ宝暦11年には伝馬役を海野宿と半月交代で担う事が出来る程に回復しています。

小田中家も再興を果たし、文化13年には伊能忠敬の8次測量の宿所として小田中新右衛門宅が利用されています。

しかし、慶応3年に大規模な火災が発生し殆どの家屋が焼失する被害を受けています。

さらに、明治維新により宿駅制度が廃止になり、近代交通に整備されると旅人が宿泊や休息で利用する事が激減した事から多くが養蚕業等に転じました。

明治21年に官設鉄道信越線田中駅が開設されると、近代化が図られ、養蚕業の衰退と共に衰微した海野宿とは立場が逆転し、当地域の行政、経済の中心を担うようになっています。

現在は道路の拡幅工事や建て替え等により風情する町並みは失われましたが、本陣の表門が残され往時が偲ばれます。

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