海野宿

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概要・歴史・観光・見所

海野宿(東御市)概要: 海野宿の集落的発生年は不詳ですが滋野氏の分流とされる海野氏が平安時代から当地域を治め海野城を拠点としていた事から、その城下町として整備されたと思われます。

ただし、地域としての地名である「海野郷」は奈良時代の天平年間(729〜749年)に東大寺大仏殿(奈良県奈良市)の北北西に位置する正倉院に所蔵されている紐心麻網墨書の中に「信濃国小県郡海野郷爪工部君調」の記載があり少なくともこれ以前から海野郷が成立していたと思われます(郡郷制が成立したのは霊亀元年:715年、定着したのが天平12年:740年)。

「爪」とは身分の高い人物が顔を隠す為の鳥の羽や布で作られた扇子のようなもので、海野郷には「爪」を制作する氏族(大陸出身の技術者)が住んでいた事になります。

又、鎮守である白鳥神社には伝説上の英雄である日本武尊が東国平定後に都に凱旋帰国する際に当地で一時留まり、尊が死後に白鳥になって飛び立った事に由来して創建されたと伝えられ、記録的にも平安時代末期には既に鎮座しています。

中世に入ると天皇家の後裔とされる滋野氏の一族が当地の領し、地名に因み海野氏を名乗り、戦国時代まで領主として君臨しています。海野氏は宗家である滋野則重の子供である重道、又は孫の広道が摂関家の荘園であった海野荘に配され地名に因み海野氏を名乗った氏族です。

海野氏は望月氏、祢津氏と共に滋野三家と呼ばれ長く当地を支配しましたが戦国時代に入ると隣接する村上氏が台頭し、応仁元年(1467)には村上氏との戦いで当主である海野持幸が討死し小県郡塩田荘が奪われるなど次第に衰微しました。

現在海野城は鉄道の敷設などで失われていますが、海野氏の氏神である白鳥神社(木曽義仲の挙兵の地とも呼ばれ、海野氏が没落後は一族とされる真田家の氏神として崇敬庇護されました)や、菩提寺である興善寺(3代当主海野幸明が開基で幸明の墓碑が建立されています。)などが点在し往時の名残が感じられます。

天文10年(1541)の海野平の戦いでは武田信虎、村上義清、諏訪頼重の連合軍が当地に侵攻し海野城は落城、一族は越後の上杉家を頼って当地を離れ、武田信玄の次男に海野氏の名跡を継がせている事から事実上海野氏も滅亡しています。一方、海野氏一族の娘を娶っていた真田幸隆が形式上は海野姓を継承したとし海野宿の前身である城下町も一定規模の町並みが残されたと思われます。

天正11年(1583)、真田幸隆の跡を継いだ真田昌幸が上田城を築くと、海野郷に住んでいた住民を上田城の城下(長野県上田市海野町)に移住させた為、町並みもかなり縮小しました。

江戸時代に入ると北国街道が開削され、寛永2年(1625)に正式に宿場町である海野宿として認めらた事で周辺の集落から民衆を集め改めて町割りなど行い整備されました。当初、海野宿と田中宿は合宿でしたが事実上、間の宿扱いで本陣や脇本陣は認められず問屋のみが置かれ半月交代で伝馬役の負担がありました。

寛保2年(1742)の大洪水で田中宿が大被害を受ける比較的被害が少なかった海野宿に本陣が移され、田中宿とは立場や格式が逆転し田中宿が再興した後もそのまま定着しました(田中宿にも本陣と脇本陣が復活)。

海野宿には本陣1軒、脇本陣2軒が設けられ参勤交代で宿泊や休息で利用する大名や善光寺詣での参拝客、佐渡金山で採掘された金や鉱物の輸送などで大変賑わい伝馬屋敷59軒、旅籠23軒を数えたそうです。

本陣は元々問屋職を担っていた藤田伝左衛門家が兼任し、脇本陣は矢島六左衛門家と宮下彦左衛門家がその職を担いました。海野宿の外れには歴代領主から崇敬庇護され産土神でもあった白鳥神社が鎮座し延享3年(1746)に編纂された「海野宿屋敷割図」には総延長約6町(約650m)宿場の東西に枡形、中央に水路が設けられ両側には103軒の家屋が軒を連ねていたとされ25頭の馬が物資や書簡などの物流を支えていました。

明治時代に入ると宿場制度が廃止され、新たに鉄道が敷かれ交通網が発展すると海野宿にある本陣や脇本陣、旅籠などの旅館業が急速に衰退し、変わって養蚕業が発達します。鉄道の駅舎開設計画があったものの中止になった事から、養蚕業の衰退と共に海野宿も衰微、その為、大きな近代化の開発が行われず江戸時代後期から明治時代の町屋建築が数多く残される事となり、現在は多くの観光客が訪れる観光地として知られています。

現在見られる海野宿の町並みの中にも元々旅籠(当時の宿泊は相部屋が主流だった為、旅籠の2階は大きな部屋を作り易く養蚕に適していたと考えられます。)だった建物を改築し養蚕場とし屋根上部に「気抜き」と呼ばれる煙出しの小屋根を揚げている様子が随所に見られます。

養蚕業は大きな富をもたらし、海野宿の町並みの特色の1つでもある「袖うだつ」を上げる家が増え旅籠時代の「出格子(出窓の格子戸)」や「出桁造(1階の外壁から桁を延ばし2階の外壁を支える構造)」、「海野格子(長短の格子が順序よく組み合わさっている)」が合わさり現在見られるような家並みに形成していきました。

海野宿は現在も北国街道宿場町の古い町並みが残り昭和61年(1986)に「日本の道100選」に選定され、昭和62年(1987)には種別「宿場町・養蚕町」、面積13.2ha、選定基準(一)「伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの」として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-文部科学省・長野県・東御市

海野宿:町屋・町並み・写真

海野宿:町並み
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海野宿・歴史・神社・寺院・城郭・古民家

白鳥神社
白鳥神社
白鳥神社
旧地蔵寺
旧地蔵寺
旧地蔵寺
本陣
本陣
海野宿本陣
旅籠
旅籠
海野宿旅籠

海野宿・町並みの構成要素

白鳥神社:本殿白鳥神社:本殿
・白鳥神社が何時頃に勧請されたのかは判りませんが、古事記や日本書紀で登場する日本武尊縁の神社として知られています。本殿は江戸時代後期の寛政3年(1791)に造営された伝統的建造物で、一間社流造、銅板葺、東御市指定文化財に指定されています。
白鳥神社:神楽殿白鳥神社:拝殿神楽殿
・白鳥神社は長く当地を支配した海野氏の氏神で、海野宿の鎮守として信仰されてきました。拝殿は明治14年(1881)に再建されたもので、木造平屋建て、切妻、桟瓦葺、平入、桁行6間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。
新海神社:本殿新海神社:本殿
新海三社神社の分霊を勧請して創建された神社で、当初は他所に鎮座していましたが、明治41年(1908)に白鳥神社に遷されました。本殿は宝暦年間(1751〜1763年)の造営で一間社流造、こけら葺、間口5尺、東御市指定文化財に指定されています。
海野宿:本陣海野宿:本陣
・藤田家は藤原鎌足の後裔の一族とも云われる旧家で、藤田信吉は上杉景勝の重臣として名を馳せ西方藩の藩主となりました。江戸時代に入り海野宿が開宿すると問屋職に任命され、江戸時代中期に海野宿が本宿に昇格すると、本陣職を担うようになりました。長屋門が残されています。
海野宿歴史民俗資料館海野宿歴史民俗資料館
・関家は代々海野宿で旅籠を生業とした家柄で、明治時代に宿場制度が廃止になると養蚕農家に転じました。建物は江戸時代後期の寛政年間(1789〜1801年)に建てられたもので、向かって左側が旅籠、右側が養蚕施設となっています。海野宿歴史民俗資料館として一般公開されています。


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