会地早雄神社(鼠宿)概要: 会地早雄神社は長野県埴科郡坂城町南条(鼠宿の上田方面の端)に鎮座している神社です。会地早雄神社の創建は不詳ですが、伝承によると景行天皇40年(110)、日本武尊が東威東征を完遂し、凱旋帰国で当地で宿営した際、月灯で険しい厳石を寝ずに見ようと、自ら御幣を立て、大己貴命の分霊を勧請し、「鼠大明神」として祭ったと伝えられています。その後、白鳳4年(674)に熊野権現(出速男神)が出現した事から合祭して祭るようになったそうです。
当初は金井村との境に鎮座していましたが、寛保2年(1742)に洪水により境内が流出し、現在地に遷座、現在地は地形や岩肌が露出している景観などから古来からの自然崇拝的な信仰があったと思われ既に小社と稲荷明神を祭る社が鎮座していたようです。天明8年(1788)に熊野三社権現を勧請し、4社が並び立つ事となり、寛政5年(1793)に社号を「会地早雄神社」に改めました(伝承とはかなり異なるようです)。
古くから鼠宿村、新地村の産土神として信仰され。境内には村上氏家臣の出浦氏の五輪塔があるらしいので中世は出浦氏が庇護していたとも考えられます。又、境内には石祠や石碑や男根石などが奉納され、「鼠大明神」を祭っていた事や地名「鼠」から境内では鼠除けの札を発行したり、養蚕の神として信仰されていて明治時代には実際に鼠神社を合祀したようです(実際の地名の意味は"不寝見"で古くから領地の境界線だったことから見張り台や狼煙台があった場所だったと考えられています)。境内にある芭蕉句碑は明治23年(1890)に建立されたもので「 膝行ふ便や姨捨乃月 翁 散花耳垣根をう可つ鼠宿 嵐雪 」と刻み込まれています。万葉歌碑は当地出身の滝沢公庵により天保年間(1830〜1844年)に建立されたものです。祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊、泉津事解男命、速玉男命、大穴持命。
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