蔦木宿(甲州街道)概要: 蔦木宿は甲州街道の宿場町で、江戸から見ると43番目にあたり信濃国最初の宿となります。蔦木宿の規模は四町半(約500m)で南北の端には枡形が配され、本陣1軒、旅籠15軒、人口500余名で構成されていました。
本陣は代々大坂屋源右衛門家が世襲し建物は富士見高原の別荘として移築されその後解体、表門は明治38年(1905)に別に移築され平成4年(1992)に現在地に移築復元されています。表門は元治元年(1864)の大火で焼失後に再建されたもので、唯一残された本陣建築の遺構として貴重な存在です。
又、本陣家は与謝野晶子と親交があり本陣跡地には 「本陣の このわが友と いにしえの 蔦木の宿を 歩む夕暮れ」の歌碑が建立されています。北側の枡形近くに富士見町指定天然記念物に指定されている「川除古木」があり往時は釜無川の氾濫から宿場を守る為、信玄堤と共に植えられたそうです。
現在はキササゲ(1株:樹高3m、幹周215cm)、サイカチ(2株:樹高16m、幹周335cm)、ケヤキ(1株)だけが残りその名残を見せています。蔦木宿には本陣の表門や川除古木の他にも武田重信が父親の追善供養の為に創建した三光寺や明治天皇が巡幸の際利用した天皇御膳水(復元)、応安5年(1372)に建立された諏訪郡内最古(年代が明確な碑)の碑である「応安の古碑」などの史跡があります。
蔦木宿は甲州街道の宿場町で慶長16年(1611)頃に宿場町として整備され、街道沿いには本陣や問屋などが設置されました。明治維新により宿場制度が廃止となり、近代交通網が整備されると急速に衰退し、それでも明治40年(1907)まで本陣が残されていたようです。現在では片側だけ古い町屋が残され町並みが形成され、本陣の唯一の遺構である表門(棟門形式、切妻、鉄板葺き、一間一戸)が本陣跡地に数度の移転の後に移築保存されています。
甲州街道:宿場町・再生リスト
|