善光寺西街道(北国西脇往還)

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概要・歴史・観光・見所
善光寺西街道(北国西脇往還)概要: 善光寺西街道中山道の洗馬宿(長野県塩尻市:中山道31番目の宿場町)と善光寺、北国街道の丹波島宿(長野県長野市)を結ぶ街道として慶長19年(1614)、当時の松本城主小笠原秀政が整備しました。松本藩の城下町と北国街道、中山道とを結ぶ経済的に利用されただけでなく「一生に一度は参りたい」とまで言われた善光寺の参拝で多くの老若男女、善男善女が利用した信仰の道です。正式には北国西往還と称しますが、一般的には善光寺街道や善光寺西街道、北国西街道、などと呼ばれています。近代以降は主要街道から外れた為、稲荷山宿(長野県千曲市)麻績宿(長野県麻績村)などの宿場町では良好な町並みを有している他、茶屋跡や石碑、石仏などの史跡も点在し当時の信仰の道の面影を随所に見る事が出来ます。

善光寺西街道のルート
洗馬宿−郷原宿−村井宿−松本宿−岡田宿−刈谷原宿−会田宿−青柳宿−
麻績宿−桑原宿−稲荷山宿−篠ノ井追分宿−丹波島宿

善光寺西街道の宿場町:概要

【丹波島宿】−丹波島宿(長野県長野市)は善光寺を庇護した松代藩の藩主真田家の居城松代城の城下を結ぶ松代道の分岐点でもあり交通の要衝でした。宿場の成立は慶長16年(1611)、その際諏訪社を勧請して宿場の鎮守として社号を「於佐加神社」に改めています。

【篠ノ井追分宿】−篠ノ井追分宿(長野県長野市、間の宿)は正式な宿場町ではありませんでしたが、善光寺西街道(北国西往還)と北国街道(善光寺街道)との分岐点で千曲川舟運の拠点、千曲川の渡船場と幾つもの機能が備わっていた為、無許可で宿泊所を開設する家が多かったとされます。篠ノ井追分宿は明治時代に入ると街道制度が失われた事で逆に周辺の中心地となり更級郡役所、塩崎警察署、学校などが設けられ繁栄しました。

【稲荷山宿】−稲荷山宿(長野県千曲市)は谷街道(飯山道)と八幡道(当地域の八幡信仰の中心だった武水別神社の境内に続く信仰の道)、善光寺西街道(北国西街道)の分岐点で、物資の集積地として善光寺西街道の宿場町の中では経済的に随一に発展しました。稲荷山宿は江戸時代末期から明治時代にかけては北信濃地方で最も栄えた商業都市となり長野県内でも呉服反物取引の最高額を記録しました。養蚕や絹の生産の減少や鉄道駅舎の位置の問題、昭和恐慌などが理によりと急速に衰退しましたが、現在でも良好な店蔵や土蔵が残され国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

【桑原宿】−桑原宿(長野県千曲市、間の宿)は中世、桑原氏の居城である小坂城の城下町として成立した町で善光寺西街道(北国西街道)が開削された際に宿場となで稲荷山宿が正式な宿場町だったのに対し、「間の宿」とされました。ただし、稲荷山宿は上田藩領、桑原宿は松代藩領だった事から、松代藩では稲荷山宿を「間の宿」、桑原宿を本宿として扱い、江戸時代末期には藩主真田幸教が桑原宿本陣で宿泊で利用しています。宿場から少し離れた所に境内を構えた「佐野薬師」は信仰の対象となり多くの参拝者が訪れたそうです。

【麻績宿】−麻績宿(長野県麻績村)の地名の由来は古代の氏族である麻績部氏が入植して開発した事が起因したとされます。その後、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)の「麻績御厨」となり、その鎮守社として伊勢神宮の分霊を勘定して麻績神明宮が創建されています。中世に入ると領主服部氏の居城麻績城の城下町となり、江戸時代に入り善光寺西街道(北国西往還)が開削されると宿場町として整備されました。麻績宿の背後には難所である猿ケ馬場峠が控えていた事から多くの旅人や商人が利用し江戸時代末期には家屋が240軒となり栄えました。明治時代以降は近代交通に遅れを取り衰微しましたが、逆に古い町並みが残される結果となっています。

【青柳宿】−青柳宿(長野県筑北村)は中世、当地の支配者青柳氏の居城青柳城(長野県指定史跡)の城下町として発生した町です。戦国時代に小笠原貞慶の侵攻により青柳氏が滅ぼされると衰微しましたが、江戸時代に入り善光寺西街道(北国西往還)が開削されると宿場町として整備されました。大きく坂沿いの町(下町・中町)と平場の町(横町)に別れL字型に町割され、坂沿いの町には石垣や、水路が残され特徴ある町並みとなっています。又、宿場の外には切通し(現在の切り通しは昭和に拡幅:長野県指定史跡)も見られ見所の1つとなっています。本陣は青柳氏の一族の後裔である青柳八郎右衛門家が歴任し問屋や宿場の上役を歴任し大きな屋敷が異彩を放っています。

【会田宿】−会田宿(長野県松本市)は中世、海野氏の一族である会田氏の居城、虚空蔵山城の城下町として発生した町です。戦国時代の天正9年(1581)の小笠原貞慶の侵攻により会田氏が滅ぼされると衰微しましたが、江戸時代に入り善光寺西街道(北国西往還)が開削されると宿場町として整備され再び活況(文久3年時:本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、木賃宿4軒、茶屋3軒、馬牛宿3軒)しました。明治時代以降は近代交通からは離れた事で衰微しましたが街道沿いには店蔵や塗屋造りの建物が軒を連ね往時の繁栄が窺えます。

【刈谷原宿】−刈谷原宿(長野県松本市)は刈谷原峠に設けられた宿場町で、町全体が傾斜地に建てられているのが大きな特徴の1つとなっています。本陣(中沢家:上問屋)、脇本陣(中沢家:下問屋)、旅籠や茶屋などもあり江戸時代後期は70戸前後の家屋があったとされます。

【岡田宿】−岡田宿(長野県松本市)は慶長9(1604)に善光寺西街道(北国西往還)が開削された際、又は正保4年(1647)に周辺の集落を集めて成立した宿場町です。岡田宿は松本城下に通じ、善光寺西街道(北国西往還)と保福寺街道(松本城下と上田城下を結ぶ街道)との分岐点でもあり享保11年(1726)に松本藩の領域が変更され天領との藩境になった事から岡田口番所が設けられ重要視されました。本陣(兼問屋)や脇本陣が設けられる一方で浅間温泉が近かった事から旅籠は10軒前後と比較的に少ない事が特徴の1つです。

【松本宿】松本宿(長野県松本市)は松本藩の藩庁、藩主居館が置かれた松本城(日本100名城・国指定史跡・天守閣は国宝)の城下町として発展した町です。松本藩の藩主の他、多くの家臣が住んでいた為に大消費地として多くの物資が集められ経済的にも賑わいました。松本城下には千国街道の他、善光寺西街道(北国西街道)、塩尻宿への脇道への分岐点でもあり多くの旅人や商工業者も松本城下を利用しました。明治時代以降は長野市との県庁所在地争いに敗れています。

【村井宿】−村井宿(長野県松本市)は案内板によると「慶長年間、北国脇往還に開かれた宿場である。松本から一里二十町、郷原宿へ一里十二町、宿場の長さは五町九間、町割りは、一戸分の間口六間、奥行二十間から三十間、元禄年間の記録では八十二軒ほどの家があったという。本陣・問屋・旅籠屋が並んでいたが、明治二十年、二十七年の二度の大火により当時の姿を失った。しかし町割や鍵の手・用水路には、昔の面影を残している。」とあります。又、江戸時代当初は松本藩と天領との藩境があった為、口留番所が設けられ人や荷物の出入りの管理が行われました。火事の為、江戸時代以前の建物は少ないですが道路の拡幅が無かった為落ち着いた町並みが続いています。

【郷原宿】−郷原宿(長野県塩尻市)は元和5年(1619)頃に成立した宿場町で、本棟造(切妻、妻入、間口が広い、屋根勾配が緩い、棟飾りが「雀おどり」)の古民家が点在する町並みとして知られています。敷地間口も他の宿場町と比べ広く、街道沿いに庭があるなど一般的な町並みとは異なる独特な景観を見る事が出来ます。本陣や脇本陣が無く、身分の高い人物は松本藩塩尻組の大庄屋を務めた山城屋(赤羽家)を利用しました。

【洗馬宿】洗馬宿(長野県塩尻市)は中山道を結んだ善光寺西街道(北国西往還)との分岐点があった事で発展した町です。江戸時代中期以降、庶民にも行楽嗜好が高まる全国から数多くの信者や参拝者が善光寺詣でを行い洗馬宿を利用しました。 江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒で構成され細川幽齋肱懸松や貫目改所(伝馬の荷物の重量を計る所)跡などの史跡があります。


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