喬木村: 安養寺

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概要・歴史・観光・見所
安養寺(喬木村)概要: 鞍馬山安養寺の創建年は不詳ですが周辺を安養寺支配した知久氏が開いた寺院で、古くは真言密宗の修験道場でした。天文23年(1554)に武田氏の伊那郡侵攻では周辺領主達が武田氏に臣従する中、当時の当主知久頼元は最後まで抵抗し、その兵火により安養寺の多くの堂宇、記録、寺宝など悉く焼失し、知久氏の居城である神之峰城は落城、頼元父子は甲府に送られて自刃し知久氏は没落します。その後は武田氏が庇護し、信玄は戦勝祈願を行い念願成就すると、寺領の寄進を行い、勝頼は毘沙門堂の修復を行っています。天正10年(1582)、武田家が滅び、本能寺の変で織田信長が自刃すると京都に身を潜めていた知久頼氏(頼元の次男又は孫)は徳川家康に身を寄せ、家康の信州侵攻の案内役として功を挙げ旧領の知久平の領主として復権し安養寺も再建されました。跡を継いだ則直は関が原の戦いで東軍に与して参陣して功を挙げ、戦後、3千石が与えられ阿島村に陣屋を構え交代寄合となりました。以来、知久氏の菩提寺として庇護され境内には阿島藩初代知久則直の墓碑を始め代々の墓が並んでいます。

現在ある安養寺毘沙門堂は文政4年(1822)に鳩ヶ峯八幡宮飯田市)の神宮寺の護摩堂として棟梁藤森広八が手懸けたものでしたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令と、その後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により神宮寺が廃寺となり明治11年(1878)に護摩堂が安養寺境内に移され毘沙門堂となりました。安養寺毘沙門堂は木造平屋建、入母屋、桟瓦葺、妻入、正面1間軒唐破風向拝付、桁行3.5間、梁間3.5間、向拝欄間には竜虎、懸魚には鳳凰、木鼻には象と獅子、破風部には麒麟の彫刻が施され平成7年(1995)に喬木村指定有形文化財に指定されています。梵鐘は永享7年(1435)に鋳造されたもので、当初は三州設楽郡にありましたが、その後安養寺に移されたとされ、総高87.5cm、鐘身69cm、竜頭18.5cm、口径49cm、厚さ5.85cm、乳64箇、昭和52年(1977)に喬木村指定有形文化財に指定されています。又、毘沙門堂に祭られている毘沙門天像は聖徳太子が自ら制作したと伝わる秘仏で60年に一度開帳されるそうです。宗派:真言宗智山派。

安養寺:写真

安養寺
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