阿島陣屋(喬木村)概要: 阿島陣屋は長野県下伊那郡喬木村阿島に位置しています。知久氏の祖先は諸説ありますが古くから信濃国伊那郡知久郷を本拠とした豪族でした(戦国時代に神之峰城を本拠を移す)。天文23年(1554)に武田氏の伊那郡侵攻により当時の領主知久頼元が周辺の領主が武田家に恭順する中、最後まで抵抗を試みますが神之峰城は落城、頼元は捕縛され河口湖の鵜の島へ幽閉された後に斬首されています。
天正10年(1582)に武田氏が滅び、本能寺の変で織田信長が自刃すると旧武田領は不安定な情勢となり、この機に乗じ京都に身を潜めていた頼元の子である知久頼氏は徳川家康を頼り旧領に復帰しました。しかし、頼氏は天正13年(1585)に徳川家康から不快をかい切腹となり、嫡男である知久則直が家督を継いでいます。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは則直は東軍として行動し、その功績で、阿島3000石の旗本としてこの地に陣屋を築きました。
阿島陣屋は東西約145m、南北約110m、面積約16000u、敷地内には30を越える建物があったとされます。知久氏は11代(則直→直政→昌直→頼久→頼直→頼中→頼膺→頼福→頼衍→頼匡→頼謙)続き頼温の代で明治維新を迎えています。明治2年(1869)版籍奉還が行われると陣屋も廃城となり内部の建物は破棄されましたが茶室(曙月庵)(喬木村指定文化財)は知久家の宅邸として残され唯一の遺構となっています。又、阿島陣屋の敷地形状も比較的良く残され、石垣の一部も見る事が出来ます。
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