喬木村(歴史)概要: 当地を長く支配した知久氏は清和源氏満快を祖とする国人領主で信濃国伊那郡知久郷を領すると地名から知久氏を名乗るようになりました。ただし、諸説あり諏訪大社の祭祀を司る大祝家の祖とされる他田氏から出たとの説もあります。鎌倉時代に入ると伴野庄の地頭などを歴任し南北朝期は南朝方に与し尹良親王(信濃宮宗良親王の子)を助けて活躍したそうです。室町時代に入ると信濃国守護職小笠原家に従い度々戦にも参加しますが、戦国時代に入ると親戚筋である諏訪氏(諏訪大社の大祝の惣領家)と共に対峙します。
この頃に神之峰城に本拠を移し勢力を拡大しました。武田信玄の信濃侵攻により当初は従属しましたが、上杉謙信の侵攻を機に反旗を翻した為、天文23年(1554)に神之峰城は武田勢に攻められ落城、当時の当主知久頼元が斬首となっています。その後は武田家の支配に変りますが天正10年(1582)、京都に身を潜めていた頼元の子である頼氏は徳川家康を頼り、武田家掃討戦に参加、その功により旧領に復権します。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは徳川方として西軍の真田昌幸父子が守る上田城攻防戦に参戦、則直の代に阿島3000石の旗本としてこの地に陣屋を築き、以後12代頼温の代に明治維新を迎えています。知久氏は阿島陣屋を中心に菩提寺の安養寺を再建するなど小城下町を形成し、天竜川には飯田との結ぶ舟渡を設け物資の集積所として発展、産業としては行き倒れになっていた僧侶を助けた知久氏の家臣が和傘の製法を教わると、知久氏は阿島傘の普及に努め全国に知られるようになったと伝えられています。阿島傘は最盛期に年間30万本が出荷しましたが現在は3千本程度となり後世に残す保存活動が行われています。
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