市田宿

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市田宿:略データ
・場 所・長野県高森町市田
・概 要・市田宿は元亀3年に武田信玄による三州街道の開削に伴い信玄の命を受けた松岡氏が周辺から住民を集めて開宿したのが始まりとされます。

当地の実力者で、代々市田宿の問屋と市田村の庄屋を歴任した関川家に伝わる「関川氏代々記」によると「只今住居仕候屋敷儀は、弐百三拾八年以前、上街道出来致節、私屋敷并御伝馬屋敷弐拾軒、従御領主被仰付、村々より人数引上申候、其節人数書所持仕罷在候」と記されています。

松岡氏は前九年合戦で鎮守府将軍源頼義軍に敗れた安倍貞任の次男とされる仙千代が乳母の尽力により信濃国市田郷牛牧村に落ち延び、当家の祖になったと伝えられています。

その後、当地の地頭職に就任、鎌倉時代には弓始の射手等を務めています。室町時代には信濃国守護職の小笠原家に従い大塔合戦や結城合戦にも従軍しその名を連ねています。

戦国時代に武田信玄が当地まで侵攻するとその軍門に下り、武田家が滅びると織田家に従い飯田城主となった毛利秀頼に属しました。その後、小笠原貞慶に従ったようですが、天正16年に徳川家康から改易を言い渡され没落しています。

一方、関川氏は天正10年に松岡頼貞から所領を安堵され、文禄3年には京極高知から市田宿関係の書状が発給されています。

慶長13年には小笠原秀政が三州街道を整備した際、家臣である春日淡路守に命じて市田宿と大島宿の条規を定め、関川氏に発給しています。

元和3年には脇坂安治の書が下賜され、明暦2年には脇坂安治の家臣渡邊久兵衛から、書状が発給されています。当初は市田村でしたが、正徳元年に上市田村と下市田村に分村しています。

幕府が定めた伝馬や人馬継立て以外に中馬が盛んになると、人や物資の往来が急速に増大し、江戸時代末期には約20日間で1060人の宿泊があったとされます。

弘化4年に伊那谷領1万3千800石が白河藩領となり、中心的役割を持った市田宿には市田陣屋が設けられています。

江戸時代末期になると平田篤胤が提唱する国学に傾倒する住民が多くなり、元治元年に水戸天狗党が市田宿を通過した際には平田派国学門人が裏道等を手引きしています。

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