伊那部宿

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伊那部宿:略データ
・場 所・長野県伊那市西町
・概 要・伊那部の地は三州街道の飯田城下と起点となる塩尻の丁度中間に位置し、高遠城下を結ぶ街道と、権兵衛峠を経て木曽とを結ぶ街道が分岐する交通の要衝だった事から軍事的にも重要視されました。

南北時代から室町時代初期頃には滋野氏三家に数えられた根津氏の一族である春日氏が春日城を築き当地はその城下町として整備されました。

草花の名所としても知られ、後醍醐天皇の皇子である宗良親王が当地を訪ねた際、尾花ヶ崎に立寄り「散らぬまま 立ち帰るべき道ならば 都のつとに 花も折らまじ」と詠っています。

戦国時代には伊那部大和守重慶が春日城の城主で、後継の伊那部重親とその弟の殿島重国は武田信玄の信濃侵攻に激しく抵抗しています。

重親は一度は武田家に下ったものの弘治2年に反乱を起こすと、武田勢から粛清され、捕縛、弧島で処刑となり伊部氏は没落しています。

その後、春日城は武田家の伊那地方の最大の拠点となった高遠城の支城として改めて整備され春日河内守昌吉が配されています。

しかし、天正10年に織田・徳川連合軍による武田領侵攻により高遠城は落城、春日城も同時に攻められ落城し廃城となっています。

城下町も荒廃したようですが天正19年に行われた太閤検地によると、16軒の家屋があった事が記されています。

江戸時代に入り改めて三州街道(伊那街道)が開削されると宿駅に指定され、宿場町として整備されています。

伊那部宿は南北方向に約330mの規模で町割りされ、両端は防衛の為に桝形が設けられ、北側には守護神として十王堂が祀られていました。宿場内の街道の中央には門川が引き込まれ、両側には並木が植樹されていました。

伊那部宿には名主役が4軒があり、交代で本陣職を兼任した問屋役が務めており、文化5年の記録によると、旅籠20軒、家屋42軒あり、酒屋や薬屋、荒物屋、髪結、銭湯等がありました。

本陣と問屋場は東側に配置され、宿場の中心付近に境内を構えた長桂寺の門前には高札場が設置されていました。

天明4年には日本の民俗学の祖とも評価される菅江真澄が訪れており尾花ヶ崎は桜の名所である事を著書に記しています。

文化8年には伊能忠敬が第7次測量で本陣兼問屋の弥治兵衛家の宿泊し供の者は年寄の源助家と喜左衛門家に分宿しています。

江戸時代末期には宿場の支配層の多くは平田国学に心酔していた事から元治元年に水戸天狗党が訪れた際には代表者は袴を着こなし丁寧に出迎え、昼食を持て成しています。

明治27年に新たな三州街道は一段下の平地に開削された事から、急速な近代化が行われず、敷地割り等が当時のままで、落ち着いた町並みが見られます。

江戸時代に建てられた建物は少ないものの当地域の豪農として知られた井澤家の住宅は貴重な事から伊那市指定文化財に指定されています。

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