片桐宿

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片桐宿:略データ
・場 所・長野県松川町片桐
・概 要・片桐の地は古くから交通の要衝で、官道である東山道の駅家「賢錐駅」が置かれたと推定され駅場10疋が常備されていました。

高山寺本「和名抄」にも「堅錐」の地名が記されており、歴史ある地名だった事が窺えます。

「吾妻鏡」の元暦元年六月二十三日条には「片切太郎爲安自信濃國被召出之。殊令憐 給。是父小八郎大夫者。平治逆乱之時。爲故左典厩(義朝)御共之間。片切郷者。爲平氏被収公。己廿余年空手。仍今日奴元可領掌之由。被仰云々。」とあり、片切太郎爲安が父親の領地だった片切郷を領地として反感された事が記されています。

片切氏は信濃守源為公の子供である源為基を祖とする氏族で、伊那郡の片切郷、飯嶋郷、大嶋郷、名子郷、赤須郷の地頭職を担い片切郷に住し、伊那源氏と呼ばれたとされます。

嘉暦4年の諏訪社上社の大宮御造栄之目録によると外垣七間の課役を務め、諏訪御符札之古書にも頭役を奉仕しています。

室町時代に入ると片切氏は信濃国守護も小笠原氏に従い、大塔合戦や結城合戦でも小笠原方として従軍しています。

戦国時代に武田信玄が信濃国を席捲するとその軍門に下り、飯嶋氏、上穂氏、赤須氏、大嶋氏と共に「春近五人衆」に数えられました。

天正10年の織田、徳川連合軍による武田領侵攻の際には武田方として高遠城に入り迎え撃ったものの高遠城は落城、多くの将兵が討死、又は自刃した為、片切氏の本流も討死したと推定されています。

武田家が滅ぶと、飯田城主となった毛利長秀の支配下に入り、跡を継いだ娘婿の京極高知は文禄2年に三州街道の宿場町となる片切宿を開宿しています。

江戸時代初期には飯田藩の藩主脇坂氏によって片桐宿内に御茶屋御殿が設けられ、重きを成しました。

寛文12年に脇坂安吉(安政)が播磨龍野藩に移封になると当地は幕府の直領である天領に組み込まれ、脇坂氏の御茶屋御殿が天領代官陣屋となる片切陣屋として利用されています。

しかし、片切陣屋の施設が倒壊し、その後は問屋の大沢八之丞の邸宅を利用していたものの、延宝5年に飯島陣屋に統合された為、片桐陣屋は廃止となっています。

元治元年には当地まで進軍してきた水戸天狗党が片桐宿と大島宿に分宿し首領だった武田耕雲斎は片桐宿の問屋兼庄屋を担った大沢家で宿泊したと云われています。

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