千曲市: 旧松林家住宅

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稲荷山宿(善光寺西街道)・旧松林家住宅
【 旧松林家住宅 】−松林家は稲荷山宿を代表する商家で、松代藩の御用達商人を担う一方で江戸時代後期からは逸早く生糸の輸出を手掛け、明治時代に「カネヤマ松源製糸」を発足させると広く商圏を広げて大きな富を得ました。特に商圏を広げる為に明治13年(1880)に北海道を視察した松林哲五郎が記した「北海紀行」は当時の北海道の様子が詳細に描かれ貴重な資料とされます。現在の旧松林家住宅は江戸時代末期の弘化4年(1847)に発生した善光寺大地震で大破した後に再建されたもので、木造2階建て、切妻、桟瓦葺き、平入、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ(1階正面腰壁は海鼠壁、側面は下見板張り縦押縁押え)、軒裏や垂木、戸袋、袖壁も白漆喰で仕上げられ、火災を意識した塗り屋造りとなっています。間取りは正面右側がオオタナ(店)、その奥に中座敷(畳10帖)、上座敷(畳10帖)、中央に板の間が2室、向かって左側の床は土間で仕上げられ通り庭として敷地背後の中庭に繋がっています。上座敷からは入側を挟んで主庭があり、その奥には土蔵、裏庭のさらに奥には2階建ての土蔵が配されています。主屋と土蔵の2階は宴会場や集会場として利用され、主に商売が円滑に進むように多くの人々との交流の場として提供していたようです。現在は「稲荷山宿蔵し館」として整備され、稲荷山宿関係の資料が展示されています。

【 善光寺西街道 】善光寺西街道は、江戸時代初期の慶長19年(1614)に松本藩の藩主小笠原秀政が開削した街道で、松本藩の藩都である松本城の城下町を中山道洗馬宿(長野県塩尻市)と北国街道の丹波島宿(長野県長野市)を結びました。参勤交代では殆ど利用されませんでしたが、北国街道は日本海側に通じていた為、千国街道と同様に塩や海産物の搬入経路となり、五街道の一つ中山道を結ぶ事で松本城下の交通の重要性も高まりました。特に、江戸時代中期以降に善光寺詣でが爆発的に庶民の間に流行ると、西国から中山道を利用した参拝者は善光寺西街道を利用した方が善光寺まで最短距離だった為、多くの往来がありました。又、松尾芭蕉(江戸時代の俳人、「更級紀行」)や、菅江真澄(江戸時代の紀行家、民俗学の祖)、十返舎一九(江戸時代の作家)、正岡子規(明治時代の歌人、俳人、「かけはしの記」)といった著名人も善光寺西街道を利用した記録が残されています。

【 稲荷山宿 】−稲荷山宿は、戦国時代に越後の上杉景勝が信州北部を掌握した際、その拠点の一つとして築城した稲荷山城の城下町として町割りされた町です。慶長3年(1598)に景勝が会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になると稲荷山城は廃城になりましたが、城下町は維持され引き続き周囲の中心的な存在だったようです。慶長19年(1614)に松本藩の藩主小笠原秀政が善光寺西街道を開削すると、その宿場町に指定され、飯山城下とを結ぶ谷街道や、武水別神社(当時の更級八幡宮)とを結ぶ八幡道の分岐点でもあった為、交通の要衝、物資の集積地として発展しました。江戸時代後期になると善光寺西街道最大の宿場町となり、江戸時代末期から明治時代初期にかけては繭や生糸、絹織物を取り扱う多くの豪商を輩出しました。明治時代には金融機関も数多く稲荷山宿に出店し長野県北部随一の商業都市となりましたが、世界恐慌後は衰退し、鉄道の駅舎が無い事から近代交通の恩恵も受けられず行政的な中心地も屋代に移りました。現在の町並みは弘化4年(1847)の善光寺地震後に再建されたもので、商業都市特有の土蔵造りの店蔵や土蔵などが数多く残されています。稲荷山宿は良好な町並みや町割り、水路などが評価され「千曲市稲荷山伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

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