中山道(信濃路)概要: 中山道は江戸時代初期に整備された五街道の1つで東海道に次ぐ街道として幕府から重要視されました。江戸日本橋から東海道草津宿まで67箇所の宿場を繋ぎ上野、信濃、飛騨、美濃などの諸藩の30家の参勤交代で利用され、各宿場町は大変賑ったそうです。碓氷峠、和田峠、鳥居峠などの難所が多く東海道に比べ6里ほど長かったものの、川留めが少なく宿泊料も比較的少ないなどの利点もあり旅人や女性達が利用しました。近代に入り主要幹線から外れた事で奈良井宿、妻籠宿、平沢などの宿場町は当時の町並みを良く留め重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
中山道のルート
江戸−板橋宿−蕨宿−浦和宿−大宮宿−上尾宿−桶川宿−鴻巣宿−熊谷宿− 深谷宿−本庄宿−新町宿−倉賀野宿−高崎宿−板鼻宿−安中宿−松井田宿− 坂本宿−軽井沢宿−沓掛宿−追分宿−小田井宿−岩村田宿−塩名田宿−八幡宿− 望月宿−芦田宿−長久保宿−和田宿−下諏訪宿−塩尻宿−洗馬宿−本山宿− 贄川宿−奈良井宿−藪原宿−宮ノ越宿−福島宿−上松宿−須原宿−野尻宿− 三留野宿−妻籠宿−馬籠宿−落合宿−中津川宿−大井宿−大湫宿−細久手宿− 御嶽宿−伏見宿−太田宿−鵜沼宿−加納宿−河渡宿−美江寺宿−赤坂宿− 垂井宿−関ヶ原宿−今須宿−柏原宿−醒井宿−番場宿−鳥居本宿−高宮宿− 愛知川宿−武佐宿−守山宿−草津宿−大津宿−京都
中山道(信濃路)の宿場町:概要
【軽井沢宿】−軽井沢宿(長野県軽井沢町)は中山道の中でも難所であった碓氷峠を控えていた事から、宿場を利用する人が多かった事から大きく発展しました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒ですが最盛期には旅籠は100軒近くあり数百人の飯盛女が働いていたそうです。明治維新後に街道制度が廃止されると衰微しましたが、外国人が避暑地として住むようになると、日本人の著名人も別荘を構えるようになり一大避暑地として開発されています。
【追分宿】−追分宿(長野県軽井沢町)は中山道と北国街道との分岐点として発展した町です。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠71軒で構成され、飯盛女も宿場全体で200人以上働いていたとされます。本陣職は土屋市左衛門家が歴任し、広大の敷地と格式の高い屋敷を有していましたが明治維新後に街道制度が廃止されると追分宿を離れ屋敷も荒廃しました。本陣の遺構は唯一裏門のみが移築され、軽井沢町指定歴史的建造物に指定されています。
【小田井宿】−小田井宿(長野県御代田町)は戦国時代から宿場町として整備された町で、江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒と小規模な宿場町です。小田井宿は明治時代以降も大規模な近代化が行われなった為、周辺の宿場町に比べと比較的町並みが良好に残され、本陣(安川家住宅)や問屋(尾台家住宅)、問屋(安川家住宅)などの遺構も点在しています。
【岩村田宿】−岩村田宿(長野県佐久市)は中山道の宿場町と同時に岩田村藩の藩庁が置かれた岩田村城(未完成)の城下町として発展した町です。岩村田宿からは小諸や甲州、下仁田への脇道が延びていた事から交通の要衝として経済的に発展し当地域の中心的な存在となりました。本陣や脇本陣は置かれず、身分の高い人物の宿泊や休息には龍雲寺(武田信玄が帰依した北高禅師縁の寺院、武田信玄の墓碑?開山は雲洞庵の十世北高全祝)や西念寺(仙石秀久と内藤正国の菩提寺)を利用し事実上の本陣とされました。
【塩名田宿】−塩名田宿(長野県佐久市)は千曲川の川止の宿で本陣が2軒設置されていました。ただし、次ぎの宿場町である八幡宿とは離れている距離が短かった事から規模としては繁栄しませんでした。本陣職を担った丸山新左衛門家や佐藤家住宅、角屋、などの遺構が点在し河原宿付近は雰囲気のある町並みが残っています。
【八幡宿】−八幡宿(長野県佐久市)は塩名田宿と近接していた事から旅籠は少なかったものの、千曲川を控えていた事から本陣1軒、脇本陣4軒が設けられていました。地名の由来にもなっている八幡神社の本殿は室町時代に建てられた貴重な古建築物で国指定重要文化財に指定されています。
【望月宿】−望月宿(長野県佐久市)は中世、長く領主として当地を支配した望月氏の居城、望月城の城下町として発展しました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒と比較的小規模の宿場町でしたが周辺の中心的存在だった事から旧望月町の町役場が建てられていました。現在でも街道沿いには古い町屋が点在し、中でも真山家住宅は江戸時代中期の町屋建築の遺構として貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
【茂田井宿】−茂田井宿は所謂「間の宿」で正式な宿場町ではありませんが、江戸時代末期の水戸天狗党の乱では天狗党の追討の命令を受けた小諸藩の本陣として利用されています。茂田井宿は現在でも古い町並みが見られ、中でも大澤酒造と武重本家酒造(国登録有形文化財)の建物が大規模で旧状をよく残されています。
【芦田宿】−芦田宿(長野県立科町)は慶長2年(1957)に村の有力者だった岩間忠助と土屋右京左衛門の尽力により宿場町として成立しました。これは中山道が正式に開削される以前の事で、北佐久地方では最も早く整備された事になります。本陣職は芦田宿の成立に携わった土屋右京左衛門家が歴任し、文久元年(1861)の皇女和宮が14代将軍徳川家茂に降嫁した際には休息所として利用されています。現在も本陣の表門と書院(和宮が休息所と利用した建物)が残され長野県県宝に指定されています。又、宿場から少し離れると名刹である津金寺が境内を構え偉容を誇っています。
【長久保宿】−長久保宿(長野県長和町)は中山道の難所とされる和田峠と笠取峠を控えていた事から旅人や商人が数多く利用し発展した町です。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒と周辺の宿場に比べると旅籠が多く発展しました。町並みは大きくL字型に計画された事が特徴で現在でも本陣(石合家)や問屋(小林家)、釜鳴屋(竹内家)、辰野屋(旅籠)などの古民家が点在し宿場の外れには松尾神社や長安寺が境内を構えています。
【和田宿】−和田宿(長野県長和町)は和田峠(標高:1531m)を控え、麓の下諏訪宿とは五里十八町(約23キロ)と離れていた為に発展した町で、特に荷物を運ぶ中継役である伝馬役が70軒あったとされ繁栄が窺えます。現在でも本陣(国指定史跡:江戸時代末期建築、和田宿最大の建物)や旅籠(国指定史跡・屋号:かわちや、江戸時代末期建築、現在は歴史の道資料館かわちや)、波多野(江戸時代末期建築)、旅籠(江戸時代末期建築・屋号:大黒屋)、脇本陣(御殿現存)、旅籠(江戸時代末期建築)、よろづや(商家)などの古民家が点在し往時の雰囲気が残されています。
【下諏訪宿】−下諏訪宿(長野県下諏訪町)は中山道と甲州街道の分岐点で、諏訪大社下社秋宮の門前町、温泉の湯治場として発展した町です。代々本陣職を担った岩波家の一部が残され、特に庭園(回遊式庭園)は中山道随一の名園と讃えられ下諏訪町指定史跡に指定されています。諏訪大社下社秋宮は信濃国(長野県)一之宮である諏訪大社の一翼を担う神社で、境内には歴史ある社殿が数多く建立され多くが国指定重要文化財に指定されています。
【塩尻宿】−塩尻宿(長野県塩尻市)は中山道と三州街道(塩尻宿〜岡崎宿:愛知県岡崎市)と松本城下(長野県松本市)への脇道とが交差する交通の要衝として発展しました。江戸時代当初は三州街道の小野宿を通過する経路が中山道の本線でしたが難所が多く不便だった事から新たに塩尻宿が設けられ経路の変更が行われました。江戸時代中期以降は天領となり、宿場には天領陣屋が構えられた為、陣屋町としても発展しています。明治時代初期の大火により多くの建物は焼失しましたが堀内家住宅が残され国指定重要文化財に指定されています。
【洗馬宿】−洗馬宿(長野県塩尻市)は善光寺(長野県長野市)と中山道結んだ善光寺西街道(北国西往還)との分岐点があった事で発展した町です。江戸時代中期以降、庶民にも行楽嗜好が高まる全国から数多くの信者や参拝者が善光寺詣でを行い洗馬宿を利用しました。
【本山宿】−本山宿(長野県塩尻市)は松本藩の藩境に位置していた事から口留番所が置かれ人や荷物の出入りが管理されていました。明治時代初期の火災により多くの建物が焼失しましたが、その後再建された建物も以前の形式を引き継いだものが多く雰囲気がある町並みが見られます。中でも秋山家住宅、田中家住宅、小林家住宅は国登録有形文化財に登録されています。本山宿の次ぎの宿である贄川宿以降は木曽谷に入り特に「木曽路」と呼ばれました。
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