草津街道

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草津街道
【草津街道】−草津街道が何時頃開削されたのかは不詳ですが建久6年(1195)、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が草津温泉の温泉街から島崎(長野県山ノ内町)を経由して善光寺(長野県長野市)を参拝したとの伝承が残されています。草津街道の経路は北国街道の新町宿(長野県長野市)で分岐して渋温泉(長野県下高井郡 山ノ内町平穏)、渋峠(標高:2172m・群馬県吾妻郡中之条町六合〜長野県下高井郡山ノ内町)を経て草津温泉に至る行程です。草津温泉からは上州(群馬県)側から草津街道と呼ばれる道筋を通り長野原宿に至り、ここで、上州(群馬県)側から信州街道、信州(長野県)側から大笹街道と呼ばれる街道に合流し高崎宿(群馬県高崎市・高崎城)で中山道と三国街道に分岐します。草津街道は正式な街道では無い為、宿場町、本陣、脇本陣などは設けられませんでしたが信州北部と北国街道を越後側から利用する場合、最短距離で江戸に結んだ為、江戸時代に入り物流が多くなると多くの旅人や商人が街道を利用するようになります。一方、正式な街道である北国街道や大笹街道は伝馬や旅籠、関所などが設けられましたが、草津街道のような届けのない街道に多くの旅人や荷物の運搬が流れると大きな損失となり、宿場制度の意味も薄らぐ危険性もあり、競合する街道同士が係争する場合もありました。文政10年(1827)、草津街道も大笹街道と同じように上州と信州を繋ぐ街道だった事から係争となり、草津街道では公的な荷物や遠方からの荷物が制限され、物資としては街道周辺の地の物に限定されました。しかし、江戸時代中期以降になると庶民の行楽嗜好が高まり、草津温泉への湯治や善光寺詣でを行う人が急増し、草津温泉から丁度一日の行程で至る渋温泉は宿泊地として大きく繁栄し、特に渋温泉は草津温泉より刺激の少ない柔らかい泉質だった事から仕上げの湯として好評となり、天保年間(1830〜1844年)からは飯盛女も認められ繁華街的な存在にもなっています。一番の難所である渋峠付近には文政2年(1819)に道中安全を祈願して西国三十三観音霊場を模した「峠の観音」が建立され庶民の信仰の対象にもなりました。

草津街道の宿場町もある渋温泉は神亀年間(724〜729年)、奈良時代の名僧として知られる行基菩薩が、信濃の巡錫している際に見付けたと伝わる古湯で、薬師如来を彫り込み守護神としたそうです。戦国時代には武田信玄の隠し湯、江戸時代には松代藩主真田家の御殿湯(本陣)として保護され草津街道の発展と共に賑わいました。因みに行基菩薩は草津温泉を発見したとの伝説も残っており、草津街道とは深い関係が窺えます。

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