信州善光寺(長野市)概要: 定額山善光寺は長野県長野市元善町に境内を構えている無宗派の単立の寺院です。善光寺の創建は推古10年(602)、麻績の里の住民本多善光が難波の堀江で金銅造阿弥陀三尊像を得て元善光寺境内(飯田市)に安置したのが始まりと伝えら、皇極天皇元年(642)、勅命により現在地へ本尊を遷座しています。白雉5年(654)には境内の整備も終え、四門四額の教えから境内が東門に当たるとして「定額山善光寺」の勅額を賜っています(ちなみに南門を南命山無量寿寺、北門を北空山雲上寺、西門を不捨山浄土寺)。仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから時代を経ても弘法大師空海、親鸞、妙遍、一遍、良忠など宗派を問わず多くの名僧、学識者が参拝に訪れ民間からも広く信仰され、現在でも天台宗と浄土宗の別格本山の格式を持ち、現在の武水別神社(長野県千曲市)、現在の戸隠神社(長野県長野市)、光前寺(長野県駒ケ根市)、津金寺(長野県北佐久郡立科町)と共に天台宗信濃五山に数えられました。
善光寺は歴代の支配者にも篤く信仰され源頼朝や実朝、北条泰時、時頼、特に戦国時代に入ると上杉謙信や武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など支配者が変わる毎に本尊が遷され謙信には浜善光寺(新潟県上越市)、信玄には甲斐善光寺(山梨県甲府市)、信長には岐阜善光寺(岐阜県岐阜市)、織田信雄には甚目寺(愛知県あま市)、秀吉には方広寺(京都府京都市)、家康には鴨江寺(静岡県浜松市)などに安置され現在の信濃善光寺に帰安したのは慶長3年(1598)のことです(秀吉の死の直前、阿弥陀如来が夢枕に立ち信州に戻りたいと告げたと伝えられています)。
江戸時代に入り幕府から庇護されると寺領千石の寄進を受け、外護職として松代藩(長野県長野市松代町:本城−松代城)の藩主真田家がその職にあたりました。宝永元年(1703)には幕府の命により松代藩3代藩主真田幸道が本堂(国宝)の再建が行われています。幸道は家臣である小山田平太夫を普請奉行に就任させ、宝永4年(1707)に撞木造り、桧皮葺、高さ約27m、間口約24m、奥行約53mの本堂が竣工しています。その後も、真田家は御開帳の際に回向柱を奉納し、境内には真田家の供養塔が建立されています。江戸時代中期以降は庶民の行楽思考が高まり、全国から善光寺詣での為に当寺に集まり門前町も大きく繁栄しました。
又、仏教界で女人禁制が主流の中、早くから女人救済の寺院として知られ江戸時代初期の大奥では多くの女官から信仰されたとも言われています。本尊である一光三尊阿弥陀如来像は善光寺式阿弥陀三尊の元となった仏像で欽明13年(522)百済の聖明王から献呈されたものと伝えられる秘仏で本堂の「瑠璃壇」に安置される厨子の中にある為、数百年誰も見たことがないとされます。現在、本尊を忠実に模した三尊像(鎌倉時代作、国指定重要文化財)が7年に1度御開帳が行われその姿を見ることが出来ます。
善光寺の門前町は戦国時代の兵火によりに荒廃しましたが、慶長16年(1611)に北国街道が開削されると松代藩(当時は海津藩)の家老である大久保長安の命により宿場町として整備が行われ、本陣、脇本陣、問屋などの施設が設けられました。当時の町割りは大きく大門町、西町、東町が区割りされ、それぞれ市を開く特権が与えられ経済的にも発展し、善光寺平の特産物が集められる物資の集積地にもなりました。北国街道は加賀藩や富山藩、大聖寺藩、高田藩などの北陸諸藩が参勤交代で利用し、本陣である「藤屋」は加賀藩前田家の定宿として大きく発展しました。明治時代に入ると、城下町ではなかったものの、経済の中心として大きく発展していた事が評価の一つとなり、長野県の県庁所在地に指定され、名実共に長野県の中心地となっています。
善光寺には数多くの伝承、伝説が伝えられていますが、中でも信濃四大伝説の1つ「牛にひかれて善光寺参り」が有名です。現在の布引観音(釈尊寺)の麓に住んでいた全く仏の教えを信じない老婆が川で白い布を洗濯していた際、一頭の牛が出現し、角に布を引っ掛けて走り去って行きました。老婆は牛を追って善光寺の境内まで来たものの、見失い日も暮れた為、本堂の軒下で一夜を過ごしました。すると、老婆の夢に善光寺の本尊が出現し、仏の教えを教授しました。老婆が目を覚ますと、すっかり改心し、家に戻ると岩壁に白い布が掛り観音菩薩が袈裟を羽織っているように見えた事から布引観音と呼ばれるようになり老婆も篤く信仰したと伝えられています。信濃三十三観音霊場番外札所(札所本尊:一光三尊阿弥陀如来・御詠歌:身はここに 心は信濃善光寺 導き給え 弥陀の浄土へ)。
長野(信州)善光寺の文化財
・ 本堂−宝永4年−撞木造、総檜皮葺、桁行14間、梁間5間−国宝
・ 厨子−宝永4年−寄棟、本瓦型板葺−国宝
・ 山門−寛延3年−入母屋、とち葺、五間三戸、二重楼門−国指定重要文化財
・ 経蔵−宝暦9年−宝形造、一重、檜皮葺、方五間−国指定重要文化財
・ 銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像(前立本尊)−鎌倉時代−国指定重要文化財
・ 善光寺造営図(六棟分九図)−享禄4年−縦153.5cm−国指定重要文化財
・ 源氏物語事書−南北朝−縦26.7cm、全長872.1cm−国指定重要文化財
・ 梵鐘−寛永9年−国指定重要美術品
・ 銅造地蔵菩薩坐像(濡れ仏)−享保7年−国指定重要美術品
・ 絹本著色阿弥陀聖衆来迎図−鎌倉後半−縦172.5、横106.5−県宝
・ 石造宝篋印塔(2基)−長野市指定文化財
・ 参道(敷石:約6千枚)−江戸時代−長野市指定史跡
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