渋温泉(長野県下高井郡山ノ内町・歴史):概要 渋温泉の歴史は古く奈良時代の神亀年間(724〜729年)に行基菩薩が全国行脚の際に発見したのが始まりとされ、行基は霊泉だと悟ると自ら薬師如来像を彫刻し守護神として安置したと伝えられています。行基が発見した源泉は現在の大湯で、幾度と無く高台から土砂が流れ込み、それをかき出し源泉を守っていたら現在のように半地下のような形になったそうです。高薬師は大湯を見下ろすような高台に境内を構え、元々は行基縁の薬師如来像が祀られていたと思われます。時代が下がった鎌倉時代末期の嘉元3年(1305)、京都の東福寺や南禅寺の住職を歴任した高僧虎関師練国師が当地を訪れ温泉寺を創建、渋温泉と臨済宗を周辺に広める事に尽力したそうです。戦国時代には武田信玄が温泉寺を庇護する事で渋温泉を開発させ永禄4年(1561)の川中島の戦いで負傷した家臣達を養生させた事から信玄の隠し湯ととも云われました。
江戸時代に入ると松代藩(藩庁:松代城)領となり、天保14年(1843)には治水工事など私財を投じて渋温泉の開発に尽力した「つばたや旅館」を当時の藩主真田幸貫が本陣にしたと伝えられています。又、渋温泉は草津温泉(群馬県吾妻郡草津町)と上信濃(善光寺)を結ぶ草津街道の宿駅でもあり、湯治客だけでなく旅人た物資の運搬者など多くの人々が利用し江戸時代後期には飯盛女も認められ大きく発展しました。草津道は越後国(現在の新潟県)側から北国街道を利用した場合、最短距離で江戸、上野国(群馬県)を結んだ為、多くの旅人が利用し、当初は物資も運んだ事から、他の街道から訴えられています。又、草津温泉よりも肌に優しい泉質だった事から、草津温泉の湯治の後に訪れる人も多かったとされます。
明治から昭和初期の小説家田山花袋も渋温泉を訪れており著書である「温泉めぐり」では「信州の渋温泉は渋のようにベタベタする。」と評しています。その他にも歌人若山牧水、小説家夏目漱石など文人墨客も数多く湯治で訪れるようになっています。渋温泉は行楽的な大きな開発がなかった為、細い路地のような道筋に木造の温泉宿が軒を連ねて温泉街が形成され、石畳の道には初湯、笹の湯、綿の湯、竹の湯、松の湯、目洗い湯、七操の湯、神明滝の湯、大湯の9つの共同浴場が設けれています。渋温泉では外湯巡りが有名となり、数多くの文人墨客や著名人が訪れたという風情ある温泉街の町並みが残されています。渋温泉の源泉は37箇所でそれぞれの温泉宿や共同浴場に引き込まれている為、泉質や効能が源泉ごとに異なっています。
特に昭和4年(1929)に建てられた金具屋の旧臨仙閣本館(木造3階地下1階建、入母屋、鉄板葺、L字型平面、建築面積303u)と旧臨仙閣浴堂(木造平屋建、切妻、鉄板葺、仏堂風意匠、建築面積75u)、昭和11年(1936)に建てられた斉月楼(木造4階建、入母屋、鉄板葺、数奇屋風意匠、建築面積172u)と大広間(木造2階建、入母屋、鉄板葺、170畳の大広間、建築面積322u)が温泉旅館建築として優れている事から国登録有形文化財に登録されています。
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