北国街道東脇往還(松代道)

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北国街道脇往還(松代道)
【北国街道東脇往還(松代道)】−北国街道の東往還で、松代藩の藩庁、藩主居館が置かれた松代城の城下町を経由する事から松代道とも呼ばれました。経路は北国街道の屋代宿(矢代宿:千曲市)で分岐して雨宮宿→松代宿→川田宿→福島宿→長沼宿→神代宿を経由して牟礼宿(上水内郡飯綱町)で再び北国街道に合流します。川田宿で谷街道(屋代宿〜飯山城下)と分岐、福島宿で大笹街道(福島宿〜大笹宿〜高崎城下)と分岐し、千曲川を布野の渡しで渡り長沼宿至ります。大笹街道は正式な北国街道と中山道を利用する場合と比べると行程が1日短くなった事から時間短縮と経費節減、取調べが厳しい碓氷関所を避ける為に多くの旅人や商人の往来があり、必然的に北国街道東脇往還(松代道)の利用者も増大しました。

【雨宮宿】−雨宮宿は北国街道東脇往還(松代道)の宿場町で元和5年(1619)に酒井忠勝が10万石で松代藩に入封した事に伴い元和6年(1620)に伝馬宿に指定され改めて町割されています。雨宮渡しがあった事から交通の要衝として重要視され、戦国時代には度々争奪戦いが繰り広げられました。明治時代以降も大きな近代化が図られず静かな町並みが残されています。

【松代城下】松代藩真田家の本城である松代城の城下町で、北国街道東脇往還(松代道)の街道沿いは比較的に建替えが進み町屋や旅籠建築は余り見られませんが、良好な武家屋敷が数多く点在しています。又、藩主真田家縁の長国寺大英寺西楽寺皆神神社など神社、仏閣も多く城下町らしい町並みが残されています。

【川田宿】−川田宿は松代城の城下から出て最初の北国街道東脇往還(松代道)の宿場町で飯山城下(長野県飯山市)とを結ぶ谷街道の分岐点だった事から交通の要衝として重要視され松代藩では口留番所を設けて人物改めや荷物改めを行い税の徴収などを行いました。元々は慶長16年(1611)に小屋敷(古町)に町割されましたが、元文4年(1739)に千曲川で大洪水が発生し、それに伴い町が大破し現在地に改めて町割が行われました。福島宿と同様に街道に沿って土蔵が並行に配置される独特な町並みで地面より高い位置に鎮座している秋葉様が異彩を放っています。

【福島宿】−福島宿は大笹街道と北国街道東脇往還(松代道)とが分岐する交通の要衝として発展しました。宿場町は千曲川と並行に位置し、対岸(長沼宿)までの渡船場も設けられていました。現在でも街道沿いには古民家が多く点在し宿場町らしい町並みが残されています(土蔵が街道に対して正面並行に並び独特な町並み)。大笹街道の起点の道標(右松代道・左草津、仁礼宿)は須坂市指定史跡に指定されています。

【長沼宿】−長沼宿は戦国時代に長沼城の城下町として整備された町で、元和元年(1615)には佐久間勝之が1万8千石で入封し長沼藩が立藩し藩都として改めて町割されます。しかし貞享5年(1688)4代藩主佐久間勝親は仮病を使い御側小姓の任を疎かにした事で改易となり長沼藩は廃藩となりました。

【神代宿】−飯山道と北国街道東脇往還(松代道)が分岐する交通の要衝として発展した町で、慶長年間(1596〜1615)に川島藩主だった松平忠輝(徳川家康6男)によって整備されました。宿場内にある道標には「是ハ善光寺ミち・これより右せんくハうしミち・これより左えちこミち」と刻まれ、往時は本陣、脇本陣、問屋、御番所などが設置されていましたが、現在はその姿が失われています。

【長野県の街道】保福寺街道草津街道北国街道東脇往還(松代道)大笹・信州街道

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