宮ノ越宿(木曽路)・徳音寺

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宮ノ越宿(木曽路)・徳音寺

【 概 要 】宮ノ越宿(長野県木曽郡木曽町日義)周辺は木曽義仲の旧跡が宮ノ越宿(木曽路)・徳音寺点在している地域として知られています。義仲は平安時代後期の久寿元年(1154)に源義賢の2男として生まれましたが、翌年、久寿2年(1155)に義賢は大蔵合戦で源義平から強襲を受け討死、その際、義仲は家臣である畠山重能、斎藤実盛の協力を得て、当地の領主だった中原兼遠に預けられ、幼少期、少年期、青年期をこの地で暮らしたとされます。治承4年(1180)、以仁王の平氏追討の令旨に従い居館の麓に鎮座していた旗挙八幡宮で挙兵し、破竹の勢いで平家を掃討し、京都を掌握するに至りました。しかし、本来源氏同士として協力しなければならないはずの源頼朝は、義仲の排斥を画策し義弟である源範頼、源義経を追討軍として派兵させました。義仲も迎え撃とうとしましたが、頼りにしていた朝廷も頼朝によって切り崩され孤立無援のまま、元暦元年(1184)の粟津の戦いに敗れ自刃して果てたとされます。

日照山徳音寺は仁安3年(1168)、義仲によって創建された寺院とされ、宮ノ越宿(木曽路)・徳音寺義仲の生母とされる小枝御前の追善供養の為とも平家追討の戦勝祈願の為に開山したとも云われています。当初の寺号は「柏原寺」でしたが、元暦元年(1184)に義仲が死去すると、大夫坊覚明が遺体の一部を密かに当寺に持ち帰り、義仲の戒名「徳音寺殿義山宣公大居士」から「徳音寺」と改め、義仲の菩提寺になったと伝えられています。天正7年(1579)に臨済宗に改宗、正徳4年(1716)に水害の被害が少ない現在地に境内を遷しています。中世は義仲の後裔を自称する木曽谷の国人領主木曽氏によって庇護されたと思われますが、戦国時代に木曽宗家が没落した為、その一族を自称する木曽氏が引き続き庇護し、江戸時代中期の享保8年(1723)には木曽義陳の発願により山門(木曽町指定文化財・木曽八景:徳音寺の晩鐘)が造営され、天明年間(1781〜1789年)には木曽義陳の発願により木曽義仲公霊廟が造営されています。徳音寺境内には義仲や小枝御前、巴御前、樋口兼光、今井兼平など木曽源氏縁の墓碑(供養塔)が建立され隣地の宣公郷土館には義仲の画像、義仲の兜観音菩薩、巴御前の長刀、宮ノ越宿の資料などが展示されています。

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