木曽路・木曽義仲

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人 物 名
備 考
・木曽義仲・木曽義仲は源義賢の2男、源頼朝、義経とは従兄弟にあたる人物。幼少時に中原兼遠に預けられた。治承4年(1180)、後白河天皇の第3皇子以仁王が。「以仁王の令旨」を発布すると、それに呼応して軍事行動を開始し、治承5年(1181)には小県郡の白鳥河原(現在の海野宿の鎮守である白鳥神社の前の河原とも云われています。※海野宿にはウダツが上がる良質な町家建築で構成された優れた町並みが残され、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。)に木曾衆・佐久衆・上州衆など3千騎が集結しました。市原合戦、横田河原の戦いで平家勢力を撃破し、天王山となる倶利伽羅峠の戦いで勝利した事で大勢が決し、掃討戦となる篠原の戦いでも平家を蹂躙し、平家が安徳天皇や守貞親王を伴い西国に都落ちをしたのに伴い義仲は京都に入ります。しかし、義仲は源頼朝と敵対した志田義広と、源行家を擁護した事で頼朝とは関係が悪化し、さらに、義仲が擁立した以仁王の第一皇子である北陸宮を皇位継承に強く推した為、朝廷でも対立を招きます。しかも、大軍を擁して京都に入った事から治安悪化と、食糧難を招き、民衆からも批判され始めました。義仲は引き続き平家の掃討戦を繰り広げていましたが、そのような中、朝廷と頼朝が手を結び義仲殲滅を画策、鎌倉からは源範頼、源義経を追討軍として派兵されます。義仲は急遽京都に戻り、強制的に征夷大将軍に就任し、追討軍との決戦に臨みましたが、寿永3年(1184)の宇治川の戦いで大敗し、追討軍による掃討戦である粟津の戦いに敗れ、討死、又は自刃したと伝えられています。
徳音寺徳音寺は義仲が母親の追善供養の為に創建。後に菩提寺となり御霊廟や供養塔が建立された。
・旗揚八幡宮・義仲の居館の鎮守社として氏神八幡神を勧請して創建。挙兵の際に戦勝祈願。
・南宮神社・美濃一宮である南宮大社(岐阜県垂井町)の分霊を勧請して創建。義仲の崇敬社で、戦勝祈願を行った。
・原野八幡宮・義仲が戦勝祈願を行った。
・岩華観音・木曽四大馬頭観音。義仲が創建。
義仲硯水・鳥居峠の御嶽神社に戦勝祈願の願文を奉納する際に、硯水として利用した清水。
・手習天神・中原兼遠が義仲の学力向上を祈念して創建。
興禅寺興禅寺は永享6年に木曽信道が義仲の追善供養の為に創建。境内に義仲の供養塔。
・木曽の桟木曽の桟には義仲が目測を謝り、愛馬が落下し転落死した伝説が残る。
・沓掛観音・木曽の桟で義仲の目測の謝りで亡くなった愛馬の冥福を祈る為に創建。
定勝寺定勝寺本堂に義仲の位牌が安置。
・妻籠城・義仲が砦の1つとして築城。
かぶと観音・妻籠城の鬼門鎮護として、一宇を設け義仲の兜に納められていた観音像を安置。
鯉岩妻籠宿にある鯉岩は義仲と巴御前が別れを惜しんだ事から「恋岩」と呼ばれた。
・馬籠宿馬籠宿には義仲の義妹とされる「菊姫」が開いた寺院跡があり、菊姫のものと伝わる墓碑(五輪塔)が建立されています。
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木曽路・人物一覧
木曽義仲巴御前中原兼遠以仁王木曽義元木曽義在木曽義康木曽義昌真理姫石川貞清山村良勝細川幽斎
松尾芭蕉貝原益軒菅江真澄島崎藤村正岡子規種田山頭火幸田露伴
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