以仁王

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人 物 名
備 考
・以仁王・以仁王は後白河天皇の第3皇子で幼少期から英才教育が行われ、学問に秀でて、文化人としても一流だったとされます。又、母方の家柄も良かった事から一時は皇位継承有力候補にも上がりましたが、平滋子(建春門院)の妨害や母方の一族である藤原公光が失脚した事でその筋は消滅しました。治承3年(1179)、平清盛の政変により、後白河法皇を幽閉、関白である松殿基房が追放、以仁王も領地が没収されました。それに、反発した以仁王は治承4年(1180)に「以仁王の令旨」を発布し、全国の武将(特に源氏勢力)に平家打倒を呼びかけ、自らも源頼政を頼りに挙兵を画策しました。しかし、計画途中で露呈した為、平家から追討を受け、準備が整わないままに戦闘に入ります。宇治川の戦いで頼政が討たれ、以仁王は興福寺に救援を得る為に戦場を離脱しましたが、追討軍に追いつかれ討死したとも云われています。実際には、追討軍の中で以仁王の顔はおろか特徴を知っている人も居なかった為に生死については確認が取れず、当時から以仁王は東国に逃避したという噂が絶えなかったとされます。

木曽地方には以仁王は木曽谷にまで落ち延びたとの伝説が残されています。それによると、討死や自刃とされた以仁王と源頼政は実は影武者で、2人とも木曽義仲に勢力範囲となる当地まで退いていたとされます。しかし、頼りにしていた義仲が志半ばで討たれた為、復権する夢が途絶えたこの地で果てたそうです。先に亡くなった以仁王は頼政によって旧岩郷村の御陵塚に手厚く葬られ墓碑を建立したと伝えられています。

又、長野県木曽郡上松町小川 には次のような伝説が伝えられています。以仁王の姫君が幼い弟と共に父親である以仁王が木曽谷に潜んでいるとの噂を聞きつけ当地まで赴きましたが、平家の追手により追い詰められ、さらに逃げている途中に弟ともはぐれてしまいました。峠を何とか越えたものの、すぐさま追いつかれ、目の前にあった淵(姫渕)に身を投げたと伝えられています。その後、良くない事が続いた事には淵の近くには姫を祭る姫宮神社を創建し篤く弔ったそうです。

以仁王の伝説は木曽地方の他、会津西街道(下野街道)の宿場町である大内宿(福島県南会津郡下郷町)や越後長岡小国地方が有名で、大内宿では越後に逃れる際に一時滞在し、宿場町の守護神として高倉神社が創建されています。小国地方の当時の領主は源頼政の実弟だった小国頼行だった為、頼行を頼りに落ち延びたとの伝説が残されています。

※会津西街道は会津藩の本城である会津鶴ヶ城の城下町と日光今市宿を結ぶ街道で、会津と江戸を最短距離で結ぶ重要な街道でした。現在でも随所に当時街道の様子が残されており、特に大内宿は会津西街道の宿場町の町並みが秀逸で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

・御影堂・伝承によると以仁王の皇子である北陸宮が父親の菩提を弔う為に建立。
・モッコ山・以仁王の陵墓。
・王屋敷・以仁王が屋敷を構えていたとの伝承が地名の由来。
・高倉・以仁王は高倉宮と呼ばれていた事が地名の由来。
・天皇坂・以仁王の伝説が地名の由来。
・高倉神社・伝承によると源頼政が以仁王の御霊を祭る為に創建。
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