宮ノ越宿(木曽町): 徳音寺

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概要・歴史・観光・見所
徳音寺(宮ノ越宿・木曽町)概要: 日照山徳音寺は長野県木曽郡木曽町日義に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。徳音寺の創建は平安時代末期の仁安3年(1168)、木曽義仲の生母とされる小枝御前の追善供養の為とも平家追討の戦勝祈願の為に開かれたと伝えられています。当初は柏原寺と称していましたが、義仲の死後彼の遺徳を偲び称号「朝日将軍」に因み山号を「日照山」、法名「徳音院殿義山宣公大居士」に因み寺号を「徳音寺」と改称し木曽一族の菩提寺となりました。伝承によると元暦元年(1184)、木曽義仲は粟津の戦い(現在の滋賀県大津市)で討死し、その亡骸を大夫坊覚明が境内に移し墓碑を建立したそうです(一般的には滋賀県大津市にある義仲寺に埋葬されたとされ、義仲寺にも義仲の墓碑が建立されています)。

天正7年(1579)に大安和尚が臨済宗の寺院として中興し、その後何度が水害で境内が大破し正徳4年(1716)現在地である中山道(木曽路)宮ノ越宿に移っています。中世は義仲の後裔を自称する木曽谷の国人領主木曽氏によって庇護されたと思われますが、木曽氏は天正18年(1590)に徳川家康の関東移封に伴い当地を離れ、慶長5年(1600)頃に木曽義利が御家騒動により改易になった事で大名家からは没落、その後、一族の一派が尾張藩士として仕官していました。尾張藩の重臣で犬山城(愛知県犬山市)の城主成瀬正親の子供が徳音寺の住職を務め、藩士である木曽氏の後裔の木曽義陳の発願もあり享保8年(1723)に正親の後を継いだ正幸の母親(徳音寺住職の母親でもある)が施主となり鐘楼門(木曽町指定文化財)を造営し、天明年間(1781〜1789年)には木曽義仲公霊廟が造営されています。

木曽義仲公霊廟内部には義仲の木像を中心に木曽一族の位牌が安置され、境内裏手には義仲、小枝御前、今井四郎兼平、巴御前、樋口次郎兼光の墓があります。又、隣地の宣公郷土館には義仲の画像、義仲の兜観音菩薩、巴御前の長刀、宮ノ越宿の資料などが展示されています。中部四十九薬師二十二番札所(札所本尊:薬師如来・身代わり薬師)。木曽七福神の毘沙門天。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:聖観音。

現在の徳音寺山門は享保8年(1723)に建立されたもので木曽義仲24代後裔の木曽義陳の発願により犬山城(愛知県犬山市)の城主成瀬正幸の母親が施主となりました。建築は三間一戸、入母屋、銅板葺、上層部は鐘付き堂("徳音寺の晩鐘"として木曽八景の一つに数えられています。)となる鐘楼門で、木曽地方における江戸時代中期の楼門建築の代表として昭和57年(1982)に木曽町指定有形文化財に指定されています。銅造阿弥陀如来立像は平安時代(藤原時代後期)に製作されたもので銅製鍍金、一鋳立像、総高10.2cm、昭和58年(1983)に木曽町指定文化財に指定されています。

【 徳音寺:菩提者(木曽義仲) 】-木曽義仲は久寿元年(1154)、源義賢(源為義の次男、源義朝の異母弟、河内源氏)の次男として生まれ、源頼朝や義経、範頼とは従兄弟の関係にあたります。久寿2年(1155)、大蔵合戦で義賢は討死、当時2歳だった駒王丸(後の木曽義仲)は畠山重能、斎藤実盛等の協力もあり木曽に落ち延び、当地の領主である中原兼遠に預けられ幼少期を過しました。治承4年(1180)、以仁王(後白河天皇の第三皇子)が「以仁王の令旨(平氏追討令)」を全国の武士達に発布し、義仲もこれに呼応し居館の麓に鎮座していた旗挙八幡宮で平家打倒の為挙兵しました。当初は北信越地方から上野国まで進軍し一応の結果を残し、治承5年(1181)から本格的な平家打倒の為の行動を開始しています。義仲は小県郡の白鳥河原(長野県東御市海野宿)に陣を張ると、周辺の豪族達も呼応し約3千騎が河原に集結し、横田河原の戦いでは信濃源氏の追討を命じられた城助職を破り北陸道を進み北陸地方へと進みました。

寿永2年(1183)、倶利伽羅峠の戦いで平維盛率いる平家10万の兵を敗走させ、続く篠原の戦いでも勝利すると平家軍は事実上崩壊し四散しました。この戦いの勝利により多くの武士団が義仲軍に加わり、同年に内に京都入りを果しています。義仲は勲功第二、伊予守に任ぜられますが、皇位継承に口を出した事で朝廷から疎まれるようになり、さらに飢饉の折、多数の兵を長く京都に滞在させた事で治安が悪化し、義仲の評価も急激に下がりだしました。義仲はこのような状況を打開する為に西国にいる平家の追討を理由に京都を離れますが、その隙に源頼朝が源範頼、義経に命じて上洛させ東海・東山両道諸国の支配権を得ると共に義仲追討を決意します。義仲も京都に引き返し軍を立て直しますが、元々混成部隊で食糧不足や、協力者であった源行家との意見の違いなどから士気が上がらず、さらに朝廷側も頼朝軍に加担した為、完全に不利な状況となりました。当初は法住寺合戦を制して京都を掌握しましたが寿永3年(1184)、頼朝軍が近江に到着すると宇治川の戦いや瀬田の戦いで大敗を喫し、粟津の戦いで討死したと伝えられています。

享年31歳、戒名「徳音院義山宣公」。寿永3年(1184)、大夫坊覚明上人は木曽義仲の菩提を弔う為、仁安3年(1168)に義仲が生母である小枝御前の菩提寺として創建した柏原寺を義仲の戒名「徳音院義山宣公」に因み寺号を徳音寺(木曽町)に改称し義仲の菩提寺としました。その後、何度か荒廃しましたが正徳4年(1716)に現在地に再建され、天明年間には義仲の霊廟が造営されるなど整備されました。境内には霊廟の他、義仲や小枝御前、巴御前、樋口兼光、今井兼平などの墓碑が建立され、義仲縁の品々を多数所有しています。

徳音寺:写真

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徳音寺と関係した歴史的人物

人 物 名
備 考
木曽義仲・徳音寺は木曽義仲が仁安3年(1168)に母親(小枝御前)の追善供養の為に創建された臨済宗妙心寺派の寺院です。義仲の死後に菩提寺となり戒名「徳音院殿義山宣公大居士」を由来として「徳音寺」と呼ばれるようになり、境内に御霊廟や供養塔が建立されました。
巴御前・義仲が亡くなると、役目を終えた巴御前は竜神の姿に戻り、再び巴ヶ淵の川底に戻りました。その後、その遺徳を偲び、戒名「龍神院殿真巌玄珠大姉」が与えられ義仲の菩提寺である徳音寺に供養塔が建立されました。
貝原益軒・貝原益軒は貞享2年(1685年)に木曽路を旅し、宮ノ越宿を訪れた際、屋敷50軒程度で、木曽義仲や巴御前の史跡でる徳音寺や八幡宮、義仲の屋敷跡がある事を紹介しています。
正岡子規・正岡子規が木曽路(中山道)を旅したのは明治24年(1891)、その際、宮ノ越宿を訪れ、木曽義仲の居館、巴渕の見学、旗挙八幡宮、徳音寺を参拝しています。


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