宮ノ越宿(木曽路)概要: 宮ノ越宿は慶長年間(1596〜1615年)から元和年間(1615〜1624年)に整備された宿場町で中山道69次中36番目(江戸から67里8町9.4間:約264キロ)に位置しています。宮ノ越宿の集落的な発生時期は判りませんが、平安時代末期頃は中原兼遠の支配下地域で、木曽義仲を青年期まで密かに匿ったと伝えられ、宮ノ越宿周辺には、義仲が平家追討の旗揚げした「旗挙八幡宮」や義仲の母である小枝御前の菩提を弔う為建立した徳音寺、巴御前が髪を洗ったと伝わる巴ヶ淵、義仲の育ての親中原兼遠の菩提寺である林昌寺兼遠が義仲の学問の神として創建した手習天神など多数の史跡が点在しています。
特に徳音寺の境内には木曽義仲や小枝御前、今井四郎兼平、巴御前、樋口次郎兼光の供養塔が建立され、鐘楼門から鳴り響く梵鐘の音が「徳音寺の晩鐘」として木曽八景の一つに数えられています。又、地名である日義も義仲が朝日将軍と呼ばれた事に因んだ「日」よ義仲の名前に因んだ「義」を合わせたものとされます。一方、地名である宮ノ越の地名の由来は鎮守である南宮神社が当初、現在地よりさらに南西1km先の「古宮平」に鎮座し、そこから見ると中腹(腰)に位置する事から宮ノ越と呼ばれるようになったとも云われています。
宮ノ越宿は中山道の中間地点に近く権兵衛街道(宮ノ越宿から伊奈まで9里6町、元禄9年:1696年に開通)との分岐点があったことから多くの旅人が利用したとされ、認められた旅籠21軒は藪原宿(10軒)や奈良井宿(5軒)よりも多かったとされます。権兵衛街道は神谷峠の麓にある神谷集落の住民で伊那谷と木曽谷の間を牛によって物資を運搬して生業としていた古畑権兵衛が率先して開削した街道で、名前に因んで権兵衛街道と呼ばれるようになりました。権兵衛街道の整備に伴い伊那谷との交通が飛躍的に向上し多くの物資や旅人が往来するようになり、宮ノ越宿もその恩恵に肖りました。
天正14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると宮ノ越宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒、家屋137棟、人口585人(男性299人・女性286人)で構成され、街道の中央には木曽川から引き込んだ水路(現在は道路の端に流されています)があり中心付近には本陣兼問屋や脇本陣兼問屋が置かれていました。
宮ノ越宿の本陣は天保14年(1843)に描かれた図面によると間口19間、奥行18間の敷地の中に式台付きの玄関やそれに続く15坪の板の間、18畳の大広間、上段の間、表門など格式の高い建物が建てられていました。明治16年(1883)の大火災で本陣を含め宮ノ越宿の多くの建物が焼失した為、古い町並みは失われましたが、それ以降に建てられた町屋や明治13年(1830)に明治天皇が巡幸の際利用した御膳水(近隣では名水として名高い)の井戸が復元され当時の様子を伝えています(本陣が焼失したのは主屋のみで敷地背後に設けられた御殿は被害を免れ近年再整備が行われ一般公開されています)。又、宮ノ越宿は木曽大工の発祥地なだけに、明治時代以降の町屋建築にも細かな細工が施されたものが点在し町並みに彩りを与えています。
|