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小野家住宅(辰野町)概要: 小野家住宅は長野県上伊那郡辰野町小野に屋敷を構えている古民家です。
小野家は甲斐源氏の一族出身とされますが、中世は信濃国守護職小笠原家に従っていたようで、天文7年(1538)に小笠原家が甲斐国に侵攻した際、伊那衆として「小野」姓の者が従軍しています。
伊那地方が武田家の支配下に入ると、武田家に従ったようで、永禄年間(1558?1570年)には当時の当主である小野雅楽助が武田信玄の家臣として小野七騎の一翼を担いました。
雅楽助は、後に小野但馬守正光に名を改め、天正10年(1582)に武田家が滅びると、弟である小野善兵衛正通は小笠原貞慶に従っています。
その後、帰農したようで、江戸時代に伊那街道(三州街道)が開削され、小野宿が開宿すると当地の庄屋に抜擢されています。
正光から2代目八左衛門、3代目長左衛門を経て、5代目で小野宿の問屋職となり、明治3年(1870)に問屋制度が廃止になるまで問屋職を歴任しています。
12代目八左衛門正實は、引き続き名主役を担う一方で、問屋制度廃止に伴い創立した陸運会社の元締となり、小野郵便局の初代局長にも就任しています。
14代目八千雄は明治41年(1908)に宮内省に入ると、牧野伸顕・湯浅倉平・斎藤実・木戸幸一の秘書を務めています。
江戸時代の小野宿の問屋場には、役人一人、小使一人、馬一疋、駕籠二、人足四人を常置していた事が記されています。
宝永12年(1762)に名主が制作した「高人別馬数書上」よると、江戸時代中期の問屋場には馬が二、三疋常置され、合宿だった隣の北小野宿を合わせて四、五疋だった事が記されています。
当時の小野宿は諸大名の参勤交代で利用される事が無かった事から、本陣や脇本陣が置かれず、問屋職が事実上の宿場の最高責任者だったようです。
小野家住宅は安政6年(1859)の火災で焼失後建てられた建物で、木造2階建、本棟造り、桁行き8間半、梁間10間半、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。
向かって左側は身分が高い人物が利用する薬医門形式の表門と式台付きの玄関、右側は一般家人が利用する通用門と通用玄関が左右によって格式を分けています。
外観上は本棟造りの特徴でもある雀おどし又は雀踊りと呼ばれる棟飾りや精緻な彫刻が施された懸魚、妻面を強調する大壁、1・2階の格子戸などが見られ意匠的にも優れています。
小野宿には本陣は置かれませんでしたが問屋である小野家住宅が代わりを勤めました。
式台付玄関からは座敷が3室連続して配され奥座敷には床を1段高くし、床の間や書院を設える事で身分、格式を表現した上段の間とする事で、格式の高い仕様が随所に見られます。
小野家には小野村千村代官や飯田藩主堀大和守の宿札が残されており、本陣と同様な役割を持っていた事が窺えます。
又、他の本棟造りに庇が付いているのに対し、小野家住宅では付いていなく妻面が強調されるような意匠構成になっている事が特徴の1つとなっています。
土蔵は江戸時代に建てられた建物で、土蔵造り2階建て、切妻、桟瓦葺き、平入、外壁は白漆喰仕上げ、腰壁は海鼠壁仕上げ。
小野家住宅は江戸時代末期に建てられた本棟造りの町屋建築で、さらに伊那街道小野宿の町並みにも大変寄与するものとして貴重な事から、主屋・土蔵、附けたりとして、表門・通用門・上雪隠・湯殿・小野家文書が平成16年(2002)に長野県の県宝に指定されています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-辰野町教育委員会
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