矢彦神社

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概要・歴史・観光・見所
矢彦神社(辰野町)概要: 矢彦神社は長野県上伊那郡辰野町大字小野に鎮座している神社です。矢彦神社の創建年は不詳ですが大己貴命が国造りを行っている際、御子神である事代主命と建御名方命を従えてこの地を訪れたことに由来すると伝えられています。大己貴命は大国主命と同神で、上記の神々は出雲国の所謂「国譲り神話」に登場し、建御名方命は天津神である建御雷神に最後まで抵抗した事で諏訪湖の畔まで追い詰められ、許しを請うて信濃国一宮である諏訪大社の祭神に祭られる事になっています。矢彦神社の由緒とはかなり印象が異なっていますが、諏訪地方では元々洩矢神や手長神足長神が祭られていたとの伝承があり、隣接する小野神社も諏訪地方の伝説を補完するような由緒となっています。

その後、景行天皇の時代に日本武尊が東夷東征を完遂し凱旋帰国してい際、小野の地を立ち寄ったと伝えられています。具体的な話が無く断片的である為、詳細は判りません。長野県に点在する日本武尊の伝承を繋げると、碓井峠、又は鳥居峠から信濃国に入り、現在の海野宿(東御市)に入り、別所温泉(上田市)を発見し、波閇科峠(筑北村と千曲市の境界線にある峠)を越える際に波閇科神社を創建し、矢彦神社を訪れたという事になり、これが事実とすればかなり理解しがたい経路と思われます。

矢彦神社を出立した日本武尊は北小野にある清水で喉を潤したとされ、その清水は日本武尊に名前に因み「建(武)の御膳水」と呼ばれています(「建(武)の御膳水」は塩尻市の「ふるさと水20選」に選定されています)。近くを流れる小野川もかつては「竹の入り川」と呼ばれ、竹の字は「タケルノミコト」が由来になっているそうです。日本武尊は実在説、架空説と両説あり判断する事は出来ませんが、長野県は日本武尊の凱旋経路として様々な伝説が流布されており、当社もその一つとなっています。

欽明天皇の御代(539〜571年)に大己貴命と事代主命を主殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿に祀り、その後に天香語山命と、熟穂屋姫命を南殿に勧請して矢彦神社としてのかたちが整えられました。社号の「矢彦神社」は越後国一宮である弥彦神社(新潟県弥彦村)の祭神と同じ天香語山命とその妃神である熟穂屋姫命が祭られている事に起因していると思われますが、何故、その両神が祭られているのかは判りません。小野神社に対し、矢彦神社の境内が東側に位置する為、どちらかと言えば小野神社に祭られている方が相応しい印象を受けますが、実際には逆となっています。又、主殿では大己貴命と事代主命が祭られているにも関わらず南殿の天香語山命に関係している社号が採用されたのも疑問があります。

その後、矢彦神社は広く信仰を集め朝廷や歴代領主からも崇敬され、白鳳2年(674)に朝廷の勅使がこの地に下向した際、勅使殿が設けられ新宮を造営、さらに現在の例祭である正遷宮祭と御柱祭が7年毎と式年祭にする事が定められました。延暦22年(803)には坂上田村麻呂が安曇野一帯に巣食う魏石鬼八面大王の討伐の為、当地を訪れ戦勝祈願を行い、見事念願成就すると神意に感謝し剣と弓を奉納し、別当となる神光寺を開いています。清和天皇の御代(850〜881年)に神倭磐余彦天皇が勧請されますが仁和3年(888)に大震災により多くの社殿が大破、同時に神官達も死傷した為、一時衰退しました。

奥州(現在の東北地方)で前九年合戦が勃発すると平定を命じられた源頼義は天喜4年(1056)に当社で戦勝祈願を行い天喜5年(1057)には誉田別天皇を北殿に勧請、子供である源義家も社殿の修復を行い、寿永元年(1182)には木曽義仲が当社の境内に兵を集めて平家打倒と源氏の武運長久の祈願を行い、大勝の後、社殿を造営しています。

以上の事柄は矢彦神社側の由緒によるもので、それを補完するような具体的な歴史資料はありません。一般的に矢彦神社と小野神社は諏訪大社に次ぐ信濃国二之宮とされますが、古くから鎮座し、格式のある神社は平安時代に成立した日本三大実録や延喜式神名帳などに記載されてるものの両社共にその名を見る事が出来ません。そいう意味でも成立した過程は謎という以外は無く、ようやく資料として明確になるのは鎌倉時代の嘉禎3年(1237)に編纂された諏訪大社上社の「祝詞段」で「小野ワヤヒコ北方南方末若宮大明神迄ミナトマチキコエヒサシキ小野ノゴセ」とあります。

この文言から推察すると、小野という地に「ヤヒコ」という神社があり、南方(現在の矢彦神社)と北方(現在の小野神社)と末社である若宮大明神(現在の矢彦神社北殿に祭られている誉田別天皇、又は小野神社の八幡宮)があり、湊まで聞き及んでいるとも訳せます。そうなると、当初の両社は越後国から移り住んだ住民により旧祖国の一宮である弥彦神社(新潟県弥彦村)を奉斎し「ヤヒコ」と呼ばれる存在で、後に諏訪信仰の広がりにより、祭神が諏訪大神に関係する大己貴命・事代主命・建御名方命・八坂刀売命が祭られるようになったとも考えられます。

又、矢彦神社が鎮座する小野地域は、古くは「憑の里」と呼ばれ、平安時代中期に清少納言が随筆した「枕草子」では「たのめの里」と記され、鎌倉時代末期に藤原長清によって撰された「夫木和歌抄」には「信濃なる伊那の郡とおもふにもたれか憑の里といふらん」の歌が掲載され、歌枕の地でもありました。これらの事から当地は早くから開けていた可能性があり、矢彦神社はその鎮守である事から少なくとも平安時代には成立していたとも考えられます。

その後は興隆、衰退を繰り返し天文年間(1532〜1534年)武田晴信(後の信玄)が再興すると社領の安堵や例祭の歳費などが賄われ、後を継いだ武田勝頼も庇護しています。信濃の武将達も格式の高い神社という事を認識していたようで、永禄10年(1567)に仁科盛政生島足島神社に奉納した武田信玄の忠誠を誓う起請文では諏訪大社の次に小野南北大明神の社号が明記されています。当初は、隣接する小野神社と同一境内に二社が並立するよう伽藍配置でしたが、天正18年(1590)に松本城(長野県松本市)の城主に石川数正、飯田城(長野県飯田市)の城主に毛利秀頼が就任すると境内周辺が両者の境界近くにあった為、その帰属を巡り争いが起こり、天正19年(1591)に豊臣秀吉の命により境内が矢彦神社と小野神社とに分断されました(周辺は塩尻市で矢彦神社境内のみが辰野町の飛地)。

江戸時代に入ると歴代高遠藩(藩庁:高遠城)の藩主に庇護され社殿の造営や社領の寄進などが行われ、慶安2年(1649)には3代将軍徳川家光より社領10石が安堵され附属山林諸役免除が認められています。境内は三州街道(伊奈街道)の宿場町である小野宿の南方に位置し旅人や物資の往来も多かった事から、街道利用者の多くが参拝したと思われます。古くから神仏習合し別当寺院として坂上田村麻呂が開いたと伝わる神光寺が祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により廃寺となり明治5年(1872)に郷社、明治33年(1900)に県社に昇格しています。

社殿も歴史ある建物で天明2年(1782)に建てられた拝殿や左右廻廊、江戸時代中期に建てられた勅使殿、天保13年(1842)に建てられた神楽殿(彫刻:名工・2代目立川和四郎富昌作)は昭和62年(1987)に長野県の県宝に指定されています。又、境内を囲う社叢は昭和35年(1960)に長野県指定天然記念物に指定され手水舎に湧き出る水は"矢彦神社の御手洗"として「ふるさとの水20選」に選定されています。祭神:正殿(大己貴命・事代主命)・副殿(建御名方命・八坂刀売命)・南殿(天香語山命・熟穂屋姫命)・北殿(神倭磐余彦天皇・誉田別天皇)・明治宮(明治天皇)。

矢彦神社の文化財
・ 矢彦小野神社社叢-約150種,36326u-長野県指定天然記念物
・ 拝殿-天明2年-切妻,銅板葺,平入,正面軒唐破風,白木造-長野県県宝
・ 右回廊-天明2年-切妻,銅板葺,白木造−長野県県宝
・ 左回廊-天明2年-切妻,銅板葺,白木造−長野県県宝
・ 神楽殿-江戸中期-切妻,銅板葺,妻入,桁行4間,梁間3間-長野県県宝
・ 勅使殿-天保13年-四脚門,切妻,銅板葺,白木造,間口1間-長野県県宝

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-長野県教育委員会
・ 現地案内板(御由緒)-矢彦神社

矢彦神社:回廊・拝殿・写真

矢彦神社・鳥居
[ 付近地図: 長野県辰野町 ]・[ 辰野町:歴史・観光・見所 ]
神楽殿・正面 御神木 神楽殿・斜め 神楽殿・背面
御柱1 御柱2 勅使殿 拝殿
拝殿・回廊 本殿 手水舎 手水鉢


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