小野宿

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)三州街道(塩の道:伊奈街道)>小野宿

概要・歴史・観光・見所
小野宿(三州街道)概要: 小野宿は古くから交通の要衝として知られ江戸時代の初頭は主要街道である中山道三州街道が交わる一大拠点でした。又、伊那郡と筑摩郡の境界付近にあった為、その帰属を巡り度々争いが繰り広げられました。天正19年(1592)には豊臣秀吉により半ば強引に境界線が決められた為(北小野を松本領石川家支配→松本藩・南小野を飯田領毛利家支配→飯田藩)、本来鎮守である小野神社矢彦神社は境内が隣接していますが、小野神社は筑摩郡( 現在の塩尻市)に、矢彦神社は伊那郡(現在の上伊那郡・辰野町の飛び地)に分けられています。

小野宿は諏訪地方と木曽谷を最短距離で結ぶ経路上に位置していた事から、江戸時代初期までは中山道の前身となる街道時代から引き続き宿場町に指定されていましたが、下諏訪宿から木曽桜沢までの経路が余りにも難所が多かった為、元和2年(1616)に新たに塩尻峠が開削され新たに塩尻宿、洗馬宿本山宿の3宿が設置されると、必然的に小野宿は中山道の経路から外れる事になりました、三州街道の一宿場町という位置付けになると、三州街道を参勤交代で利用するのは飯田藩に限定され、さらに小野宿を利用しなかった事から、宿場内には本陣が設けられず問屋である小野家が本陣的な役割を持ちました。江戸時代後期になると三州街道も多くの物資や旅人が行き交うようになり、小野宿には家屋が200棟以上、人口1千人以上となり当地方の経済的な中心として機能し大きく発展しました。

明治時代以降、街道制度は失われたものの、三州街道は国道153号線と略経路が重なった為、現在も車両の交通量が多く、旧街道沿いの民家が次々建て替えられましたが、小野宿では極端な近代化が成されなかった為、上記の小野家住宅をはじめ、複数の古民家が軒を連ね、特に本棟造の町屋建築が複数存在します。現在の町並みは江戸時代末期の安政6年(1859)の大火後に再建された町屋群で構成され特に間口が広い本棟造り(木造平屋建て、切妻、妻入)の建物が目立つ独特な景観を見る事ができます。

【 旧小野家住宅 】-小野家は当地を代表する有力者で、三州街道が開削され小野宿が設置されると隣接する宿場間の荷物の取次を行う問屋に抜擢され、江戸時代の村役人である地方三役の一つ名主を歴任しています(地名の「小野」を姓として掲げている事からも当地の支配級の家柄だったと思われます)。敷地は間口14間半、奥行きが約50間と広大で、正面には主屋の他、格式のある家にしか許されなかった表門(薬医門)が設けられていました。小野宿は大名の参勤交代で利用されなかった為、本陣は設けられませんでしたが、小野家が事実上の本陣格として式台付の玄関や上段の間、優れた意匠が採用されています。又、信州地方で出桁造と同様に良く見かける本棟造の古民家の遺構としても知られ、町並み景観に大きく寄与している事から長野県の県宝に指定されています。

【 小野宿と境界線 】-小野宿(長野県辰野町)がある地は伊那郡、筑魔郡、諏訪郡が交差する所謂「特異点」と呼ばれる特殊な地域で、その様な場所には神聖視され、有力な神社や寺院が境内を構える例が良く見られます。集落という小さな単位でも入り口付近に祭られている境界神は外部からの悪霊や疫病を防ぐと信じられており、現在でも祠や道祖神の石碑など各地でその名残が見られます。国境の境には両国側、それぞれに境明神が祭られる例もあり、小野宿外れに鎮座する小野神社と矢彦神社が並列しているのも同じような印象を受けます。

又、古代の日本海地方と諏訪地方の文化の交差点だった可能性もあり、隣の市町村である塩尻市の「塩尻」は日本海側の塩の限界を意味するならば、その境界線がある当地はその突端に位置する事になり、現在、塩尻市側にある善知鳥峠は松本平と伊那谷の境界線を成す峠で、東西を分けるの分水嶺の1つでもあります。社号の矢彦神社も意味ありげで、越後国(現在の新潟県)の一宮である弥彦神社と類似し、境内に鎮座する南殿には弥彦神社の主祭神である天香語山命と、その妃神である熟穂屋姫命が祭られています。ただし、主祭神は諏訪大社の主祭神である建御名方命の父神である大己貴命(大国主命)と兄神である建御名方命である事から、その後、当地域は諏訪文化圏になったのかも知れません。

【 小野宿と東山道と岐蘇山道 】-もう一つ、当地が重要視されたのは、古代の官道である東山道と、その後、便宜を図る為に奈良時代に開削された岐蘇山道(吉蘇路)が合流した特異点だった事です。両道とも正確な経路は判りませんが、東山道は概ね神坂峠を越えて現在の阿智村辺りから、近世に三州街道(伊那街道)と呼ばれた街道に近い経路を採り、岐蘇山道(吉蘇路)は近世で中山道(木曽路)と呼ばれた街道に近い経路を採ったと思われます。江戸時代初期の中山道は下諏訪宿→三沢→楡沢→小野宿→牛首峠→木曽桜沢を結んでいた事を考えると、古代の岐蘇山道(吉蘇路)も小野宿までは同じ経路を採った可能性があり、正に当地が結束点だったかも知れません。何れも推察でしかありませんが、重要な土地には格式の高い神社が祭られている場合が多く、小野神社、矢彦神社の両社が信濃国二宮である事はその事を物語っていると思われます。

【 小野宿と憑の里 】-歴史的に明確になるのは平安時代中期の事で、当時の女流作家、歌人として知られた清少納言が随筆した「枕草子」に当地の事を「たのめの里」と表現している事から、少なくとも平安時代中期には既に広く知られた存在で、現在でも当地域の事を「頼母の里」や「憑の里」と呼ぶようです。しかし、元和2年(1616)に中山道が小野宿を通過しない経路(下諏訪宿→塩尻宿→洗場宿→本山宿)に改められると、次第に重要性が失われていきました。それでも、太平洋側と信州内陸部を結ぶ三州街道(伊那街道)の宿場町として重きを成しました。

小野宿:町屋・町並み・景観・写真

[ 付近地図: 長野県辰野町 ]・[ 辰野町:歴史・観光・見所 ]
小野宿の問屋を歴任した小野家住宅が町並み景観に大きく寄与しています。 小野宿の本棟造の古民家や一部土蔵が点在する町並み 小野宿の伊奈街道沿いの町並み。格式の高い表門を有する武家屋敷倉澤家が見られます。 小野宿の倉澤家の前に掲げられた高札場。
小野宿の本棟造が見られる町並みと洋風建築である小野郵便局 小野宿の歴史的な町並み景観の構成要素の一つとなっている小野光賢光景記念館 小野宿の良好な町並み 小野宿の町並み景観の構成要素の一つとなっている小野酒造

小野宿・神社・寺院・城郭・古民家

小野家住宅
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