浄林寺(松本市)概要: 清水山華厳院浄林寺の創建は中世、信濃守護職としてこの地を支配した小笠原家が開いたとされます。当初は信濃国筑摩郡林村(松本市里山辺林)に境内を構え華厳宗の寺院でしたが、戦国時代に武田家の信濃侵攻により小笠原家が没落すると、庇護者を失い、さらにその兵火により大きな被害を受け一時衰退します。天正18年(1590)、松本城の城主として赴任した石川数正は城下町を町割した際に浄林寺が女鳥羽川近くに移転、数正の跡を継いだ松本藩2代藩主石川康長は石川家の菩提寺として整備し境内には数正の御霊社が創建されています。慶長18年(1613)に石川家が改易になった後も松本城に入った小笠原秀政が寺領10石を寄進するなど歴代松本城の城主から庇護され、寺運が隆盛、浄雲寺、慶林寺、常照寺、善立寺を末寺を持つ大寺として大きな影響力を持ちました。明治5年(1872)の神仏分離令により一時廃寺となり広大な寺領は失われましたが、その後、現在地境内を移し再建されています。
浄林寺山門は元禄年間(1688〜1704年)に建てられたと伝えられている古建築で松本市内にある山門建築として最古なものです。入母屋、本瓦葺、四脚門、左右に軸を持っている大型な山門で組物も彫物などの意匠も優れていることから昭和44年(1969)に松本市指定重要文化財に指定されています。隣接する鐘楼は弘化2年(1845年)の建立で、棟梁は二代目立川和四郎富昌、彫刻は原田倖三郎(三代目立川和四郎の弟子)が担当しています。松本三十三観音霊場第22番。山号:清水山。院号:華厳院。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。
【 浄林寺:菩提者 】−石川数正は天文2年(1533)、石川康正と松平重吉娘との間に生まれました。徳川家康が今川義元の人質時代から近習として従い、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長に義元が敗れ自刃すると、今川家が急速に衰退し、それに乗じて家康は松平家の独立を画策、懸案となった人質問題を石川数正が解決したとされます。その後も、家康の側近として姉川の戦いや、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど主要な戦に従軍して功を上げ、徳川家の家老となり、岡崎城の城代にも抜擢されています。羽柴秀吉との対立が深まると、石川数正が徳川家との橋渡し役を行い、最後まで戦を避けようと画策しますが、努力が報われず天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いが起こっています。
小牧・長久手の戦いが終結後の天正13年(1585)に突如として徳川家を出奔し、羽柴秀吉の家臣となり、秀吉は河内8万石の領主として迎えています。天正18年(1590)の小田原の役で小田原北条氏が滅ぶと、新たに松本城10万石が与えられています。数正は新天地となった松本領開発に尽力し、松本城の近代城郭への改修や、領内の街道の整備、新たな城下町の町割などを行っています。
文禄2年(1593)に死去、享年61歳、戒名「箇三寺殿的翁宗善大覚位」。松本城の天守閣は生前には竣工せず、跡を継いだ石川康長の代に完成したとされます。文禄2年(1593)に数正が死去すると跡を継いだ石川康長は浄林寺を数正の菩提寺と定め、境内には霊廟が造営され御霊社として庇護しました。ただし、石川康長は慶長18年(1613)に突如として改易となり松本城を離れ為、江戸時代に発生した浄林寺の火災で御霊社が焼失しても再建は図られませんでした。
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