【 概 要 】−石川数正は天文2年(1533)、石川康正と松平重吉娘との間に生まれました。徳川家康が今川義元の人質時代から近習として従い、外交官的な役割を持ちました。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長に義元が敗れ自刃すると、今川家が急速に衰退し、それに乗じて家康は松平家の独立を画策、懸案となった人質問題を石川数正が解決したとされます。永禄6年(1563)の三河一向一揆では宗教上の理由などから徳川家臣団が分裂しましたが、数正は信仰していた一向宗から浄土宗に改宗し一揆鎮圧に尽力し家康に対して忠義を尽くしています。
その後も、家康の側近として姉川の戦い(織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍との戦い)や、三方ヶ原の戦い(武田信玄との戦いで大敗した事でも有名)、長篠の戦い(織田徳川連合軍と武田勝頼との戦いで快勝)など主要な戦に従軍して功を上げ、徳川家の家老に就任し、家康の嫡男信康の後見人、西三河の旗頭などを歴任し天正7年(1579)には岡崎城(愛知県岡崎市康生町)の城主となっています。羽柴秀吉との対立が深まると、石川数正が徳川家との橋渡し役を行い、最後まで戦を避けようと画策しますが、努力が報われず天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いが起こっています。
小牧・長久手の戦いが終結後の天正13年(1585)に突如として徳川家を出奔し、羽柴秀吉の家臣となり、秀吉は河内8万石の領主として迎えています。徳川家を出奔した理由は判りませんが、戦国時代に主家を変える事は珍しくもない行為で、実際、数正は8万石という外様の家臣としては破格の待遇を受けています。逆に、徳川家は大きな戦力低下と共に、情報の流出を恐れ、軍制などの改革が行われています。
天正18年(1590)の小田原の役で小田原北条氏が滅ぶと、新たに松本城10万石が与えられています(事実上の松本藩の立藩)。数正は新天地となった松本領開発に尽力し、松本城の近代城郭への改修や、領内の街道の整備、新たな城下町の町割などを行っています。松本の地は古くから信濃国府や信濃守護所が置かれた政治的な要衝で、千国街道や、中山道、三州街道などを押える上でも戦略的にも重要視されていた為、数正が秀吉に信頼されていた事が窺えます。文禄2年(1593)に死去、享年61歳、戒名「秋岳院殿高月宗林大居士」。松本城の天守閣は生前には竣工せず、跡を継いだ石川康長の代に完成したとされます。
宗林寺の創建年は判りませんが、戦国時代後期に北信濃の国人領主だった村上義清の3男とされる善誉故念和尚(村上義照)により中興開山しています。天正18年(1590)に石川数正が松本城の城主になると石川家の庇護となり、文禄2年(1593)に数正が死去すると、跡を継いだ石川康長が菩提寺として境内を整備し、数正の戒名である「秋岳院殿高月宗林大居士」を由来として「宗林寺」と寺号を改めています。宗林寺の境内には石川数正の供養塔と伝わる五輪塔が建立されており安曇野市指定有形文化財に指定されています。その他にも浄林寺(松本市)も菩提寺として霊廟がもうけられ、兎川寺(松本市)には供養塔が建立されています。
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