浪合宿

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浪合宿:略データ
・場 所・長野県阿智村浪合
・概 要・浪合の地は尹良親王所縁の地として知られています。

尹良親王は後醍醐天皇第八皇子の宗良親王の子供とされ、南朝方への援軍の為、諏訪から足助に向け、当地まで進軍してきた際、北朝方の飯田太郎、駒場次郎等と交戦となり敗北、大河原の民家で自刃し、後のことを子供の良王親王に託したとされます。

鎮守である浪合神社の祭神は尹良親王、境内には宮内庁管轄の尹良親王御陵墓や陪塚3基が設けられています。

又、地名として御所平や宮の原、隠山、陣ヶ畑、般若洞、忍沢、矢越等、伝承を彷彿させる地名が数多く残されています。

ただし、尹良親王は同時代の信頼性の高い資料からはその名を探す事が出来ず、多くは偽書とされた文献に頼っている事から、専門家からは実在性が疑問視されています。

その他にも御醍醐天皇の孫とされる守永親王が当地で北朝方の小笠原氏と合戦に及び討死したとの伝承や、足利直義の子供である之儀が反対勢力に襲撃され討死したとの伝承が伝えられています。

さらに「鎌倉大草子」によると弘和年間に南朝の某宮と新田氏の残党が浪合で討死し、脇屋義則と子供である刑部少輔は奥州に落ち延びたと記されています。

奥州相馬出身で相馬左衛門尉忠重の子供とされる念阿弥慈恩所縁の地としても知られ、応永15年には当地で長福寺を開創しています。

念阿弥は幼少の頃に父親を殺されると、遊行上人に弟子入りすると共に敵討ちを完遂する為、各地で厳しい修行を重ね鞍馬山では異怪の人から妖術を伝授され、筑紫の安楽寺で剣の奥義を感得し、遂に念願を果たし、その後は再び仏門に入ったとされます。

戦国時代に武田信玄の信濃侵攻により武田領に組み込まれ、三州街道(伊那街道)が整備されると浪合関所が整備されたと見られ、元文年間頃に編纂されたと見られ、元文年間頃に編纂された「信陽城主得替記」によると弘治2年の事と記されています。

浪合関所は元和7年に改めて設置され享和6年に洪水で大きな被害を受けると現在地に遷されています。

天正10年、織田勢の甲斐国侵攻により武田家の多くの家臣が離散し、事もあろうか保護を申し出た小山田家も土壇場で裏切った事から武田勝頼は天目山の麓で自刃に追い込まれています。

勝頼の首は浪合の地まで運ばれ、この地で織田信長が首実検を行い、跡地には石碑が建立されています。

江戸時代に入ると背後に三州街道(伊那街道)の難所である寒原峠や治部坂峠が控えている事から浪合宿で宿泊する人が多く大いにに賑わっています。

特に江戸時代中期以降は中馬輸送が盛んになると、住民の多くが副業として牛馬の飼育を行うようになり村内95戸のうち50戸程が街道沿いに屋敷を構え、町並みが形成されました。

江戸時代後期には日本の民俗学の祖との評価を受ける菅江真澄が当地を訪れ、良翁権現(現在の浪合神社)を参拝し尹良親王の事を記録しています。

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