・赤須上穂宿は三州街道(伊那街道)の宿場町で、西側が「上穂宿」、東側が「赤須宿」に分かれ、15日毎に交代で伝馬荷の継送りを行った合宿でした。
「上穂」の文献的初見は文中2年筆された「日本洞上聯燈録」に遠州橘谷山大洞院の如仲天禅師が9歳の時に伊那郡上穂山の恵明法師に師事した事が記されています。
中世に入ると上穂之郷と呼ばれ、諏訪大社上社の氏子が多く、社殿の造営等には村を揚げて奉仕していたようです。
一方、「赤須」の文献的初見は嘉暦4年に筆された鎌倉幕府下知条案で、幕府が諏訪大社上社の五月会等の結番を定めた中に赤須の地頭が見られます。
戦国時代に武田信玄の信濃侵攻が行われると当地の土豪と思われる赤須氏、飯嶋氏、大嶋氏、片切氏、上穂氏は「春近五人衆」と呼ばれ武田家に従っています。
弘治2年に川中島合戦が行われ、武田勢が当地を離れると上伊那地方の8人の武将が武田家に対して反旗を翻しその中には上穂伊豆守重清の名が連ねています。
江戸時代に入ると当地の統治を任された大身旗本の千村家に多くの土豪が従いましたが、その内上穂十一騎は慶長19年に発生した大坂冬の陣で、密かに大坂城に入城し、真田幸村旗下で真田丸の守備に尽力、翌、大坂夏の陣にも参戦し真田幸村隊として奮戦したものの、悉く討死したと伝えられています。
源平の争乱や南北朝の動乱、戦国時代の土豪の割拠等が影響し、江戸時代には三州街道(伊那街道)の東側は旗本の千村氏、西側は旗本の近藤氏、大田切川以北と、天竜川東の「中沢七ヵ村」や「東伊那五ヵ村」は高遠藩領とは複雑な支配体制下にありました。
隣の宿場町である宮田宿とは太田切川を挟んだ対岸にあり、太田切川が三州街道の難所であったものの、それに関わる渡しや宿泊、物資の売買は宮田宿の管理下にあった為、赤須上穂宿と度々利害対立で紛争が起きています。
明治時代の実業家として知られた田中平八の出身地でもあり、実家の藤島家は赤須上穂宿の豪商だったものの江戸時代末期頃に衰微したそうです。
赤須上穂宿には安楽寺や上穂沢川橋基礎石等の史跡があり、郊外には霊犬早太郎伝説の舞台となった光前寺が境内を構えています。
現在、道路の拡幅工事や近代化、建て替え等により、当時の雰囲気は失いつつあります。
三州街道(伊那街道・中馬街道):宿場町・再生リスト
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