・鎌倉時代初期の文治3年に近藤周家が信濃国伊那郡郊戸庄の地頭に就任し郊戸庄の飯田郷に遷り住みました。
近藤周家は西光法師(藤原師光)の六男で阿波国坂野郡坂西を本貫とした土豪だった事から旧地に因み「坂西」姓を揚げましたが、その後は阿曽沼氏が郊戸庄飯田郷の地頭を担っています。
阿曽沼氏は南北朝時代まで地頭職を担い、観応元年に同族である小山氏にその職を譲渡しています。
天授6年に小山義政が鎌倉公方に反抗した為に没落した事から、信濃国守護職小笠原家の一族である坂西氏が当地に配されています。
上記の坂西氏は小笠原貞宗の三男である宗満が飯田郷の地頭職を賜り、飯田郷三本杉に本拠地を設け坂西孫六と称したのが始まりとされます。坂西氏は本家筋の小笠原家に従い大塔合戦や結城合戦に従軍しています。
天文23年に武田信玄が下伊那に侵攻すると当時の当主である坂西政之は武田家に従属し、武田家の家臣秋山伯耆守の組下として軍役60騎を務めています。
永禄5年坂西長忠は突如、小笠原信貴の領地を横領した事から、武田家と小笠原家から反撃され坂西一族は悉く討ち取られたとされます。
その後、上記の坂西家とは別系統と思われる坂西織部経定が飯田城に配されたものの、天正10年に織田勢の侵攻により飯田城を放棄、その後山中で自刃に追い込まれています。
武田家が滅ぶと、織田信長は毛利秀頼を高遠城に配し、秀頼は織田方に転じた下条氏長を飯田城の城代に任命しています。
天正15年に徳川家に従い伊那郡代の管沼定利が飯田城に入ったものの、天正18年に徳川家康の関東移封に伴い定利も当地を去った為、代わって毛利秀頼が再度入封しています。
文禄2年に毛利秀頼が病没すると娘婿の京極高知が遺領の一部を引継ぎ、飯田城を近代城郭へ拡張整備し、改めて城下町の町割りを行っています。慶長6年に小笠原秀政が5万石で入封し飯田藩の藩都として発展しています。
又、飯田の地は三州街道(伊那街道)の他、中山道の妻籠宿とを結ぶ大平街道と豊橋とを結ぶ別所街道が分岐する交通の要衝で多くの物資が集まる集積場として経済的にも重要視されました。
江戸時代中期以降は中馬輸送の中継地として発展し「入馬千匹、出馬千匹」と詠われる程城下には人馬や荷物が行き交い活況を呈しました。問屋は伝馬町と桜町に置かれ、初日から10日までは伝馬町、残りの月末までは桜町の問屋が伝馬役を務めています。
宝暦3年に信濃国佐久郡野沢村出身で地方史家、俳人として知られる瀬下敬忠が編纂した「千曲之真砂」には「堀大和守様御城下、高二万石、むかしは大家の御城下のよし、町続きはよく、入口旅籠町あり、そこを通リ抜けて、谷川という橋を渡りて、本町に入る。それより御城大手の前へ懸り、御城は町の左のかたにあり、甚だ賑々しき町也」と記しています。
三州街道(伊那街道・中馬街道):宿場町・再生リスト
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