・塩尻宿は戦国時代に武田家が信濃国を手中にすると、領内の経済流通や軍事行動の利便性向上の為に街道整備を行い、永禄6年に伝馬宿に指定されたのが始まりとされます。
地名「塩尻」は日本海産の塩が千国街道で、太平洋産の塩が三州街道で当地まで運ばれ、それぞれの終着点(尻)だった事が由来になったとも云われています。
江戸時代に入ると、松本藩に属し、当地が松本藩の南方の玄関口で、三州街道と千国街道、五千石街道の結束点で交通の要衝だった事から、松本藩は塩尻口留番所を設け人物改めを厳しく行っています。
慶長18年に中山道の旧経路が廃止となり、慶長19年に新たに塩尻峠経由の街道筋が開削すると、塩尻宿が宿場町に指定されています。
中世の塩尻宿は五千石街道沿いの古町に位置していましたが、松本藩主小笠原秀政の普請により現在地に改めて町割りされ、塩尻宿の鎮守として阿礼神社を現在地に遷座し、長福寺(永福寺)を移転させています。
本陣は当初、小口家が務めていましたが、その後、平林家に交代し、明和8年以降は川上久左衛門家が明治維新まで歴任、さらに塩尻町村の名主等も務めています。脇本陣は本陣川上家の分家である川上喜十郎家が務めています。
本陣川上家は西条村から移住した豪商で、間口24間、建坪288坪、表門や式台付玄関、上段の間を有する格式の高い造りだったとされます。
本陣の敷地内には酒造場や醤油蔵等複数の建物があり、用水を庭園内に引込、幕末に皇女和宮が徳川将軍家に降嫁の際には当家で昼食を採っています。
享保10年以降は幕府の天領となり交通の要衝で重要視された塩尻宿には周辺5万3千石を管理監督する行政機関である塩尻陣屋が設けられています。
天保14年に記録された「中山道宿村大概帳」によると宿場の規模は7町29間、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒、人口794人、家屋166軒の規模で、大きく上町、中町、下町で構成され、中町には行政の中核を成した塩尻陣屋をはじめ本陣や脇本陣、問屋、旅籠が配されています。
明治15年と明治16年に発生した火災により大きな被害を受け、江戸時代からの主な遺構は小野家住宅と堀内家住宅、永福寺観音堂等となっています。
小野家は屋号「いてうや(銀杏屋)」を掲げる上級旅館で、伊能忠敬の第七次測量時に宿所として利用した事で知られ国指定重要文化財に指定されています。
堀内家住宅は江戸時代後期に建てられた大型本棟造りの建物で、貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
三州街道(伊那街道・中馬街道):宿場町・再生リスト
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