駒場宿(阿智村)概要: 駒場宿の都市的発展は古く、古代の官道である東山道の「阿智駅」に由来します。当時は神坂峠越えや信濃坂などと呼ばれ近世では中山道の脇街道として落合宿まで続いていました。
古代では東山道最大の難所とされ阿智駅側には広拯院という宿坊のような施設が設けられ、阿智駅には通常の3倍にあたる10頭の馬が配置され現在の駒場の地名の由来になったとも云われています。
三州街道が何時頃に開削されたのかは不詳ですが戦国時代には武田信玄が三河侵攻に利用し、元亀4年(1573)4月12日には野田城攻略中に病気が重篤した信玄が信州に引き上げる途中、駒場宿で没したと伝えられています。
江戸時代に入り三州街道(伊奈街道)が整備されると宿場町として整備され中山道妻籠宿と駒場宿とを結ぶ清内路街道と遠州街道に繋がる三河道の分岐点として発展しました。
清内路街道は古くは軍事的な要衝で案内板によると「 天正10年(1582)2月14日信長軍先陣団景春、森長可の軍勢木曽の峠を越え伊奈谷に侵入した。又、天正12年9月27日徳川方飯田城の城主菅沼小大膳軍この地を通り木曽妻籠城を攻める。元治元年(1864)11月25日水戸浪士関所を通過した。鐘堂脇の道は昔の関所間道であった。」とあります。
江戸時代中期以降は物流が活発化し特に農家の牛馬も輸送用に利用した中馬が発達した事で三州街道沿いの宿場町は繁栄しました。現在も駒場宿には古い町並みが残っており往時の繁栄が窺えます。
三州街道(伊那街道・中馬街道):宿場町・再生リスト
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