・飯島の地は中世以来、当地を支配した飯嶋氏の居城である飯島城の城下町として発展しました。
飯嶋氏の祖は蔵人大夫片切源太とされ、為行が片切郷、飯嶋郷、大嶋郷、名子郷、赤須郷の地頭を担い、寿永年間にその内の飯嶋郷が子供の片切為綱に与えられ、跡を継いだ為綱の子供、為光が地名に因み「飯嶋」姓を掲げました。
為光は飯嶋郷の地頭に就任すると承久の乱でも功績があり、出雲国三沢郷を賜り、孫の1人広忠が三沢郷を本貫とし「三沢」姓を掲げています。
当地の飯嶋氏はその後も飯嶋郷を支配し、信濃守護職小笠原家に属していたものの、戦国時代に武田信玄の信濃侵攻により、小笠原家が没落すると武田家に従い、近隣の土豪である大嶋氏や片桐氏、赤須氏、上穂氏と共に「春近五人衆」に数えられました。
その後、15代飯嶋民部少輔為次が高遠城の城将の1人に抜擢され高遠城に入ったものの、天正10年に織田信忠の軍勢に攻められ落城、為次も討死しています。
武田家が滅ぶと徳川家に従い、慶長6年に小笠原秀政が5万石で飯田藩に入封すると小笠原家に属しました。
その後、小笠原家の松本藩移封に従い、18代飯嶋弥兵衛為延は彦根藩井伊家に仕官したものの、晩年は御役御免となった為、当地に戻り帰農、その後は名主等の上役を歴任しています。
一方、当地は文禄2年に三州街道(伊那街道)の経路が攻められた際に宿駅に指定され宿場町として整備されました。
江戸時代当初は飯田藩に属していたものの寛文12年に脇坂安政が播磨龍野藩に転封になると、旧飯田藩領の一部が天領となった事から、延宝5年に幕府の代官陣屋が宿場の一角に設置されました。
幕末時の飯島陣屋は松本藩の管理下にあり、水戸天狗党が飯島宿を訪れた際には、松本藩から「手出し無用」との通達があった事から、宿場内を通る事を見過ごしています。
天狗党が飯島宿で昼食を採っている間、飯田藩は無用な争いを避ける為に藩内の勤皇に通じている者を集めて飯島宿に向かわせ、献金と裏道を案内する事で飯田城下の不可侵を約束させています。
明治維新後に伊那県が立県すると飯島陣屋は伊那県の県庁として利用されたものの、明治4年に行われた第1次府県統合に伴い信濃国と飛騨国の6県が筑摩県に統合された為、伊那県は廃され、県庁も廃止となっています。
三州街道(伊那街道・中馬街道):宿場町・再生リスト
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