宮田宿(三州街道)概要: 宮田宿の歴史は古く古代の官道である東山道の宮田駅が設置された場所で以来、当地域の行政、経済の中心として発展しました。又、諏訪郡と伊那郡との郡境に隣接した為、軍事的にも重要視され宮田氏などの国人領主が館を築き小笠原家一族の内乱に対応しています。
江戸時代に入り三州街道(伊那街道)が開削されると慶安2年から万治2年(1649〜1659年)に整備された宿場町として整備されます。
特に三州街道の難所の一つに数えられた大田切川を控え、飯田藩(藩庁:飯田城)の藩主の参勤交代の宿泊地として選定された事で多くの人達が宮田宿を利用しました。
寛文2年(1662)や明和5年(1768)の大火により延焼を避ける為、宮田宿内の街道の幅は約10m程に広げられ中央に水路を設けるなどの防火対策が施され馬の飲み水、家屋への引水などにも利用されました。
江戸時代後期になると経済の発達により物資の往来が多くなり、さらに民衆の行楽への関心が高まると善光寺や伊勢神宮に参拝や講中を行なう人々が増大し宮田宿も繁栄しました。
江戸時代末期には家屋57軒、人口246人、宿場の長さ約300m程ありました。本陣は新井家(長野県の県宝)が代々歴任し、屋敷は飯田藩主が参勤交代で利用する為、格式のある建物が求められました。
現在の宮田宿は中央の水路は消滅し町屋など古い建物が点在するものの当時の雰囲気は失いつつあります。
三州街道(伊那街道・中馬街道):宿場町・再生リスト
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