木曽町: 高瀬家資料館

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概要・歴史・観光・見所
高瀬家資料館(木曽町)概要: 高瀬家は藤原家出身で菊池肥後守則澄を祖高瀬家資料館とする氏族とされています。福島宿(木曽路)・高瀬家資料館菊池肥後守則澄がどの様な人物かは判りませんが、菊池氏は寛仁3年(1019)の刀伊の入寇の際に大功があった藤原則隆(大宰権帥藤原隆家の孫)が肥後国(現在の熊本県)菊池郷を与えられ菊池姓を名乗るようになったと伝えられています。ただし、藤原則隆(大宰少弐)の父親とされる藤原政則は肥後国住人と記載される古文書が残されおり、出生についても藤原氏である事は懐疑的な説が殆どです(紀姓の地方豪族説、鬼室福信の後裔説、古代鞠智族後裔説、源経基の後裔説など)。菊池氏は永正元年(1504)22代能運が戦傷がもとで享年23歳で死没し、これをもって宗家は滅亡しているので、則澄は肥後を離れたのかも知れません。

その後、後裔は高瀬姓を名乗るようになり慶長19年(1614)の大坂冬の陣の頃に4代目高瀬四郎兵衛武浄が木曽路福島宿に入り、跡を継いだ八右衛門武声が木曽代官だった山村家(交代寄合旗本、尾張徳川家家臣)に仕官して採用されたとされます。山村家の家臣となった高瀬家は御側役、鉄砲術指南役、勘定役、福島関所番などの役職を歴任し、屋敷が福島関所の隣地にある事からも重要視されていた事が窺えます。

当時の武家屋敷は昭和2年(1927)の福島大火に類焼し多くが焼失しましたが、土蔵と庭園が残され、僅かにその名残を見せています。又、高瀬家は島崎藤村の縁がある家として知られ、藤村の実姉「園」が高瀬家14代目当主に輿入れした事から、藤村も高瀬家に滞在した事があるとされ、著作である「家」は高瀬家が題材となり「園」も登場人物の「お種」として描かれています。現在は高瀬家資料館として整備され島崎藤村の関係する資料や、高瀬家に伝わる生活道具などが展示されています。

案内板によると「 ここ高瀬家は、文豪島崎藤村の姉"園"の嫁ぎ先で、高瀬家資料館作品"家"のモデルとして知られています。"園"は作品"家"に登場する"お種"であり又、"夜明け前"の"お粂"です。高瀬家は、藤原氏の出で、菊池肥後守則澄を祖としその後高瀬と改め、則澄より4代目にあたる高瀬四郎兵衛武浄が大阪冬の陣のこのろ木曽福島に入りその子八右衛門武声が山村代官に仕えて以後幕末まで山村家の家臣として代々御側役、鉄砲術指南役、勘定役として仕えました。大火により土蔵、庭園の一部を残し焼失したものの旧家の風情を今も伺うことができます。島崎藤村に関わる資料と関所番や生活に関わる道具類が所蔵、展示されています。 木曽町 」とあります。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-木曽町

高瀬家資料館:写真

高瀬家資料館
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