興禅寺(木曽町)概要: 萬松山興禅寺は長野県木曽町福島向城に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。興禅寺の創建は永享6年(1434)木曽信道(木曽家12代)が先祖である木曽義仲の追善供養の為、円覚太華和尚(鎌倉建長寺開山蘭渓道隆5世孫)を招き開山したのが始まりと伝えられています。
さらに、木曽家16代木曽義元が篤く帰依し多大な庇護を与えた為、寺運が隆盛しました。
以来、木曽家歴代の菩提寺として庇護され寺運も隆盛し木曽三大寺(興禅寺・長福寺・定勝寺)の1つに数えられる程になりました。
戦国時代に入ると木曽家は武田家に従いましたが、武田家が衰微すると天正10年(1582)に織田家に与し、さらに同年、武田家が滅び、本能寺の変で信長が自刃すると徳川家に与しました。天正18年(1590)、家康が関東に移封になると随行し下総国海上郡阿知戸1万石の領主として木曽の地を離れました。
庇護者を失い興禅寺は衰微しましたが、江戸時代に入ると木曽家の家臣筋である山村家が木曽地方の代官として赴任、その菩提寺として庇護されました。寛永18年(1641)、明治39年(1906)、昭和2年(1927)と大火があり多くの堂宇や寺宝、記録などを焼失し、特に昭和2年(1927)の火災では室町時代に建立され保護建築物(国指定重要文化財)に指定されていた勅使門を焼失しています。
境内には石庭として広さ日本一とされる看雲庭をはじめ万松庭、昇竜の庭、須弥山の庭などの庭や木曽義仲の遺髪を納めた墓碑、木曽信道の墓碑、木曽義康の墓碑、木曽義昌の墓碑、木曽家代々の墓碑、山村家歴代の墓碑、武居啓斎、用拙父子の墓碑、遠藤五平太の墓碑、今井佐十郎の墓碑、石作駒石の墓などがあります。木曽七福神:吉祥天。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:釈迦牟尼。
【 蛻庵稲荷伝説・概要 】−興禅寺の境内には蛻庵稲荷が祭られています。蛻庵稲荷の伝説には細かな点で差違がありますが、概ね次ぎのように伝えられています。
戦国時代、飛騨国の領主三木秀綱(姉小路秀綱)は、1匹の白い子狐を大変可愛がっていました。子狐は奥方や若君にも可愛がられ、特に若君とは良い遊び相手でもありました。天正13年(1585)、豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨に侵攻し、三木家の居城である松倉城(岐阜県高山市)は落城、秀綱は自刃、奥方と若君は行方が分からなくなり、子狐は途方に暮、なんとか信州諏訪に流れ着き、人の姿に化け諏訪家に仕える千野兵庫(高島藩では江戸時代中期に同姓同名の家老がいますが、関係性は不詳?)の家に住み込みで働く事になり、名を蛻庵と名乗りました。
蛻庵は千野家でも大変良く働いた為の皆から好かれましたが、暫くすると、三木秀綱の若君が出家し桂岳和尚と名を改め木曽の興禅寺の住職になったとの噂話を耳にするようになりました。蛻庵は居ても立ってもいられなくなり、千野家で暇を貰い、木曽の興禅寺の桂岳和尚の下に馳せ参じ小坊主として弟子入りし身の回りの世話などをしました。
特に飼われていた時の子狐とは名乗りはしませんでしたが、桂岳和尚に近くに居て御世話をする事が蛻庵にとって何よりも幸せな事で一生懸命尽くしました。本当のところ桂岳和尚は蛻庵の正体を知っていましたが、知らない振りをした方が御互い良いだろうと考え自然に振舞っていました。
ある時、桂岳和尚は母親も子狐を可愛がっていた事を思い出し、3人で一緒に住むのも良かろうと思い、蛻庵に母親の居る安国寺(岐阜県高山市)から興禅寺に連れて来て欲しいと書状を持たせ使いに出させました。桂岳和尚は猟師は日頃から動物を見ている事から蛻庵の匂いや所作から正体がばれるのを危惧し、蛻庵にもし、宿泊する事になったら、猟師の家に絶対に泊まってはいけないよと言伝を添えました。
蛻庵は奥方に会える事を楽しみで、楽しみで堪らなくなり、夜になると何の警戒もせず日和田の村の一軒の民家に宿を求ました。すると、運悪く、そこの家は猟師の家だったのです。猟師は蛻庵の何気ない所作から人間ではないと悟り、銃口から覗けば正体を見破る事が出来る「国友」と呼ばれる鉄砲を持ち出し覗いてみると、そこには白い狐の姿が映りました。蛻庵が寝静まった事を確認した猟師は一発で仕留め、蛻庵は命を失いました。
蛻庵の服の中からは興禅寺の桂岳和尚の書状が出てきた為、これはまずい事になったと猟師は思いましたが、家人にかん口令を敷き何事もなかったように振舞いました。すると、日和田の村に災いが頻発するようになった為、白狐(蛻庵)の祟りと悟り、猟師は興禅寺の桂岳和尚の下に赴き正直に事の顛末を話しました。
桂岳和尚は嘆き悲しみましたが、蛻庵を悪霊にしてはならいと思い、興禅寺の境内に祠を設けて蛻庵の霊を慰め祭ると不思議と日和田の村に災いも起こらなくなりました。日和田の村の村人は桂岳和尚への感謝の念と、蛻庵の祟りを恐れて多くの家が興禅寺の檀家になったと伝えられています。
【 興禅寺:菩提者・木曽家 】−木曽家は源氏の一族である木曽義仲を初代とする名族で2代義重は木曽と仁科が安堵され仁科に移り、3代義宗は上野国沼田に移り沼田姓に改称しました(義宗の外祖父とされる沼田家国を頼り、「家」の字と藤原姓を継承したとも)。
家村の代に足利尊氏に従い元弘・建武の争乱で功を挙げ再び木曽領を与えられ復権、家村は近江国にも所領を与えられ諏訪守にも就任、木曽谷に多くの城や館、砦を設けて当地方を掌握する事に尽力しています。
家賢の代には木曽谷全域を概ね掌握したと思われ国人領主として確立し、応仁の乱頃に「木曽氏」に復したと見られ古文書にも「木曽殿」が散見されます。
又、家豊の代から木曽義仲の後裔を前面に打ち出し文正元年(1466)に菩提寺である興禅寺に寄進した梵鐘の銘には「大檀那源朝臣家豊」が記されています(このような経緯から沼田氏の祖が木曽義仲とは一概に言い切れず、系図を改竄した可能性もあります)。
戦国時代に入ると周辺地域にも勢力を広め小笠原家、村上家、諏訪家と共に信濃四大将に数えられ程大きな影響力を持ちましたが、武田信玄の信濃侵攻により上記3家は没落し、天文24年(1555)、当時の当主木曽義康は信玄に従属するようになります。
その後、嫡男義昌の正室として信玄の3女を迎える事で武田家の一門に加わり一応領土が安堵され引き続き木曽谷周辺の支配が認められています。
天正3年(1575)、長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れると、義昌は次第に武田家からの独立を望むようになり、天正8年(1580)に遂に武田家から離反し織田信長に属しました。
天正10年(1582)の織田方による信濃侵攻では率先して協力し武田家滅亡に大功を挙げ、木曽谷の他、安曇郡・筑摩郡が与えられ版図を大きく広げましたが、同年に起こった本能寺の変で信長が死去した事で、織田家の指揮系統は無くなり、それに伴い上杉家、徳川家、小田原北条家が信濃に侵攻し、義昌は安曇郡・筑摩郡を放棄し木曽谷を守る事に専念しています。
その後、徳川家康に臣従し、家康の信濃侵攻に協力する事で本領が安堵されますが、天正12年(1584)の小牧、長久手の戦いでは豊臣秀吉に与し、秀吉と家康の和議が成立すると再び徳川家の傘下とされます。
これらの経緯から天正18年(1590)の家康関東移封の際、事実上減封の下総国海上郡阿知戸領1万石の領主となり、さらに義昌の跡を継いだ義利は慶長5年(1600)、素行が悪い事から改易され木曽家は没落します。
【 興禅寺:菩提者・山村家 】−山村家は、鎌倉幕府の大学頭大江匡秀衡の後裔とされ大江良道の代に近江国山村を領した事から地名に因み山村氏を称したのが始まりとされます。
その後、良道は木曽良元に仕えるようになり、跡を継いだ良利は木曽義昌の娘を正室に迎えた事で木曽家の一族として重用されるようになりました。天正18年(1590)に木曽家が下総国海上郡に移封された際、一旦随行しますが後に木曽谷に戻り土豪となりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して行動し5千9百石が与えられ、元和元年(1615)以降は尾張徳川家の家臣として木曽谷代官職、幕府の命により中山道福島宿に設けられた福島関の関守に就任しています。以降、明治維新までこの体制が維持され当地方に大きな影響力を与えました。
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