木曽町: 大通寺

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概要・歴史・観光・見所
大通寺(木曽町)概要: 智勝山大通寺は長野県木曽郡木曽町福島に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。大通寺の創建は慶長6年(1601)、柱山和尚が開山し木曽の代官である山村良勝が境内(元山村氏屋敷跡、又は木曽義昌屋敷跡)を整備したのが始まりとされます。開基は山村良勝ですが良勝の正室の戒名が「大通寺殿炎山宗梅大姉」と寺号に因んだ名で過去帳の一番目に記載されている事から、実際は正室の方が大きく関わった事が窺えます。

山村良勝は木曽谷を長く領していた国人領主木曽氏の家臣で、天正18年(1590)、主家である木曽義昌が下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)の移封に随行し木曽谷を離れましたが、跡を継いだ木曽義利が慶長5年(1600)に改易になった為、浪人の身となり、その際、山村家を助けたのは柱山和尚とされます。同年、関ヶ原の戦いの際、山村父子が木曽路(中山道)を進軍する徳川秀忠率いる徳川本隊の道案内を行った事により、父親である山村良候が木曽代官に抜擢され、翌年良候が死去した事で良勝が2代目を就任し、大恩あった柱山和尚を当地に招きました。良勝の正室も柱山和尚を篤く帰依し、大通寺創建に大きく寄与した事から、死後の戒名は寺号と同じ「大通寺殿炎山宗梅大姉」が与えられ、大通寺過去帳の一番最初に記入されています(大通寺の境内は木曽義昌の屋敷跡で、その後、良勝の正室の弟とされる小笠原内蔵助の屋敷として与えられ、その屋敷を大通寺に寄進したとも云われています)。

その後も木曽代官山村家縁の寺院として庇護され、天和2年(1616)に火災で焼失した際には、承応3年(1654)に北傳和尚の尽力により再興を果たし、寛文4年(1664)に山村新左衛門忠清と森田佐右衛門眞道が梵鐘を寄進しています(当時の梵鐘は太平洋戦争で供出)。

大通寺山門は安永7年(1778)に建立されたもので、三間一戸、入母屋、銅板葺き、八脚楼門、高欄付、上層が鐘楼堂となる鐘楼門、施主は向井休治、棟梁は原源右衛門、扁額「大通禅寺」は書家三井親和書、木曽町最古の寺院建築で江戸時代中期の楼門建築の遺構として貴重な事から昭和54年(1979)に木曽町指定有形文化財に指定されています。境内には武田信玄の娘で木曽義昌に嫁いだ真理姫(木曽氏は網戸(千葉県)へ移封後、改易となり真理姫は木曽三岳村に隠遁し98歳で死去。山村氏は木曽氏の重臣だった縁で供養塔が建立された。)の供養塔が建立されています。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:聖観音。

大通寺:写真

大通寺
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大通寺と著名人物

人 物 名
備 考
山村良勝・大通寺(長野県木曽郡木曽町福島宿)は慶長6年(1601)に山村良勝又は奥方(戒名:大通寺殿炎山宗梅大姉・戒名が寺号に因むもので、大通寺が所有している過去帳の1番最初に記され、位牌が安置されている事から、創建時に大きく関わったと思われます。)が開基となり柱山和尚により開山された臨済宗妙心寺派の寺院です。境内は木曽義在が築いた上之段城の跡地で、福島城が築かれた後は上之段城が居館、福島城は詰城として機能していたと思われます。木曽義昌が下総に移封になると山村氏屋敷となっていましたが、江戸時代に入り、関ケ原の合戦で中山道(木曽路)を進軍した徳川秀忠を助けた功により山村良候が木曽代官に就任すると福島城の麓に代官所を設けて、当地は大通寺の境内として寄進されました。
真理姫・大通寺の境内に武田信玄の娘で、木曽義昌の正室である真理姫の供養塔。元々、大通寺の境内が広大で、真理姫の供養塔は現在地より少し離れた場所に建立されていましたが、鉄道が開削されると敷地が割譲され、それに伴い現在地に移設されました。この供養塔は誰が、何時頃建立されたのは不詳ですが、大通寺の創建に大きく関わった山村氏、、又は木曽氏一族、又は木曽氏旧臣などの関係者が建立に携わったと思われます。


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