木曽町(中心部・歴史)概要: 平安時代の木曽町には大吉祖荘、小木曽荘、遠山荘といった荘園が点在し開発が進みました。平安時代末期には木曽谷から源氏の遺児である源義仲(木曽義仲)を輩出し、南北時代になると義仲の後裔を名乗る木曽氏が国人領主として長く当地を支配しました。木曽氏は天文から弘治年間(1532〜1558年)に福島城を築くとここを居城と領内経営を行い支配体制を強化しましたが、戦国時代に入ると武田信玄の木曽侵攻により武田家に従属し信玄の娘真理姫を嫡子義昌に迎えるなど一族衆に加わり立場を確立します。
天正3年(1575)武田勝頼が長篠の戦で織田信長に敗れると当時の当主木曽義昌は天正10年(1582)に逸早く織田家に組したことが、武田家滅亡に大きな原因となり、領内安堵の他、安曇郡と筑摩郡も与えられ松本城(当時の深志城)の城主にもなっています。本能寺の変で織田信長が倒れると、多くの織田家家臣達は自領に引き上げた為、越後の上杉景勝が南下し松本城も落城、義昌も木曽まで退き、徳川家を頼る事で、上杉家、小笠原家と対峙します。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉に組し徳川家に対しましたが、和睦後に徳川家に従った為、上総国阿知戸(現在の千葉県旭市)1万石に移封されました。
その後、木曽氏家臣だった山村氏は関ヶ原の戦いの際に徳川秀忠の進軍を手助けした功で木曽町周辺を支配する代官となります。慶長20年(1615)の大坂の陣の後は尾張藩領となり山村氏は家臣として扱われ引き続き代官職を歴任しています。又、江戸時代に入ると中山道(木曽路)が整備され、当地には福島宿が開かれ、日本四大関所の一つ福島関所が設けられます。その後も福島宿は木曽谷の政治・経済の中心として栄え、天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると福島宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、家屋158軒となっています。現在でも宿場町の雰囲気が随所に残り良好な町並みを残しています。
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